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「明けない夜はない」、コロナウィルスの恐怖や不安の中で、口にこそ出さなかったものの、心の奥底ではその言葉を思い浮かべながら耐え忍んできた。いや、そうでも思わなければ耐えられなかったというのが正直な気持ちである。10月1日、ついにすべての地域で宣言が解除された。再び宣言が出されるかもしれないという一抹の不安はぬぐえないものの、併せて「経口の抗ウイルス薬が年度内の承認を目指して開発が進んでいる」というニュースも届き、「夜明け前」を感じ始めている。多くの方々の懸命な努力によって、恩恵がもたらされつつあることを思うと、感謝以外の言葉が見当たらない。
神が天地を創造された時の一日について、「夕べがあり、朝があった。第一の日である」(創世記1:5)と括(くく)られているが、聖書は一日の始まりは「夕べ」であり、終わりが「朝」と定義付ける。だからユダヤ暦が、一日は夕方の日没(夕方6時)から始まり翌日の日没前で一日が終わるとするのも、聖書を背景としているからである。更に加えれば、一日という区分が付けられる前の世界は混沌(カオス=秩序なく混乱した状態)であり、神が「光あれ」(同1:3)と語られることで光(=昼)が現れ、闇(=夜)と分けられたとある。つまり一日は、秩序ある世界、神が与えたまい命がそのまま輝く光と、神不在の混沌とした闇から成るというのが聖書の解釈なのである。私たちの知る一日は、太陽の光に照らされて始まる朝と昼、そして太陽の光を失った夜で終わるが、太陽がもたらす昼と夜は第4日目であるということも、心に留めたいことである。聖書がいう「光」は神の言葉から、もっと具体的に言えば、神の愛からくるのであって、太陽や人工的につくられる「光」ではないということだ。必ず解決の道筋があると信じ希望を抱き始めようとするならば、私たちは「明けない夜はない」と心に言い聞かせ、前を向いていくことができるのだろう。
24年前、長女は中二の時に「多発性硬化症」という難病を宣言された。病気について調べれば調べるほど、私は深い暗闇に向かう日々であった。「神様、どうして!」と思わず嘆き、いや怒りをぶつけた。数か月「明けない夜」が私の心を覆っていた。そのような中から、「私の怒りを受け止めてくださる神」に気付いた時、「明けない夜はない」という言葉が心に浮かぶようになった。
まだ夜が完全に明けた訳ではない、コロナ禍は。多くの方々の努力に感謝しつつ、私たちも一緒に「明けない夜はない」と言える日のために、今日を過ごそう。