神さまが共におられる神秘(67)稲川圭三

お返しができない人にするのは、神のわざ

2016年8月28日 年間第22主日
(典礼歴C年に合わせ3年前の説教の再録)
招待を受けたら、末席に行って座りなさい
ルカ14:1、7~14

イエスさまは今日の福音の中で「宴会に招かれた人たち」に向けて話をしています。また、「宴会に招いてくれた人」にも向けて話をしています。

今日の福音を通してイエスさまがおっしゃりたいことは何かというと、「人間に本当に面目(めんぼく)を与えてくれるのは人の目ではないよ」ということです。「本当にお返しをしてくれるのは人間ではなく、主である神さまですよ」ということを教えておられます。

「面目を施す」(ルカ14:10)という言葉ですが、もともとの言葉では「栄光」という言葉が使われています。人間に本当の「栄光」を与えるのは、「人の目ではないよ。神さまなんだよ」とおっしゃっておられるのです。

「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(11節)

神さまが私たちをご自分の「栄光」で満たしてくださるのだから、その真実の前に頭を低くするようにと教えられています。

また、神さまがしてくださる「お返し」とは何かというと、「食事の招待に対して、食事に招待し返す」ようなものではなく、ご自分のいのちの全部でお返しになられるというものです。

今日の福音の後半は、「招いてくれた人」へのイエスさまのお話ですが、不思議な感じもあったかもしれません。

「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」(12~14節)

「報われる」と訳されている言葉は、「お返しをする」と訳されているのと同じ単語が使われています。

「正しい者たちが復活するとき」(14節)というのは、「すべての人間の中に神さまのいのち、復活のいのちがあるということに出会わせていただくとき」と言えそうです。

そして、私たちが「人の中に神さまのいのちがある」ということを見いだすのは、実は「私たちと共にいてくださる神さま」のわざです。だから、お返しをしてくれない人に私たちがもし何かをし、人間の中に神さまのいのちがあることを認めるなら、それは「私たちと共にいてくださる神さま」のわざなのだと思います。

「正しい者たちが復活するとき」はいつなのでしょうか。「今」なのではないでしょうかねえ。イエスさまは今日、共にいてくださる神さまと一緒に、「お返しができない人」に良いことをするように教えておられるのです。

どうでしょうか、みなさま。これまでの人生の歩みの中で「お返しができない人」に何かを与え、自分の労力を注ぎ、時間を割き、お金を使ったことがあるでしょうか。現在進行形かもしれませんが、もしそれがあるならば、それは神さまのわざだと思います。

なぜだかは分からないが、その人のために費やした時間、その人のために注いだ労力、使ったお金、割いた時間、お返しできないような人にそんなことをしたことがあったならば、それは神さまのわざだと思います。そして、私たちがその神さまのわざを神さまと一緒にさせていただいたら、それこそが神さまからいただいている最大の報いなのです。

きっと、「お返し」などしてもらえないところに注がれた労力というのは、たくさんあると思います。お返しなんかしてもらえないところに払われたお金も、たくさんあると思います。お返しなんかしてくれないところに砕かれた心も、思いも、たくさんあるんじゃないでしょうか。それは神さまのわざだと思います。それが「正しい者たちが復活するとき、報われる」という報いではないでしょうか。

今日も、私たちが「お返しなんかしてくれない人」に対して何かをさせていただくようなことがあるならば、まさに「一緒にいてくださる神さま」が一緒の向きでしてくださっている神のわざです。それが神さまからの報いだと思います。

そのことに、ただただ与(あずか)らせていただく。「おれがやってやっているんだ」なんていうところに立つのではなくて、そうさせてくださる神さまの前に「はい」と頭を下げて、「そうさせていただきます」と、そういうところで歩ませていただけるならば、それこそ今日イエスさまが福音で私たちに勧めてくださっているお勧めの道なのだと思いました。

 






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