主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、イザヤ書の8章です。よろしくどうぞ。
イザヤ書 8章12節
あなたがたは、この民が謀反と呼ぶことを何一つ謀反と呼ぶな。
この民が恐れるものを恐れてはならない。おびえてはならない。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
神様はイザヤや国の指導者に向けて「民が恐れるものを恐れるな」と言いました。「謀反」という物騒な単語も出てきていますが、「多くの人が『謀反』と言っても、それが本当に謀反であるとは限らない」というような意味でしょうか。
国の指導者と国民とは、見える景色が異なります。国民が脅威に思っているものが、必ずしも指導者の目に脅威に映っているかはわかりませんし、国民が恐れていないものが、実は指導者にとっては脅威であったりもします。
現在、日本では総理大臣が選挙での大敗を受けて「辞任すべきだ」「いや、留任すべきだ」との議論の真っ只中にいます。「留任することは民意を無視することであるから謀反に等しい」というようなことを主張する方もいます。しかし総理ご本人は「留任する」という決意を固めていらっしゃるようです。総理はプロテスタントのクリスチャンであるようですから、もしかしたら今日引用したこの箇所を心に留めていらっしゃるのじゃないか、なんてちょっと思いました。
難しいですよね。国民から政治のことは見えないことが多々ありますし、反対に政治の世界から国民の生活が見えていないことも多々あるように思えます。しかし、当時のイスラエルと現代日本では政治理念が異なります。国民主権を憲法に掲げる現代日本においては、民意がいわば「最高議決」です。「大事なことは指導者が決める。民はついてこい」という政治体制ではありません。もしかしたら総理には僕たち国民には見えていない脅威が見えているのかもしれません。それゆえに「やめるわけにはいかない」と言っているのかもしれません。
やめるべきだと思うにせよ、やめるべきでないと思うにせよ、指導者には僕たちには計り知れない、想像できないような悩みと葛藤を背負っていらっしゃるんだろうなということには、感謝と敬意を示したいと思います。今も昔も西も東も、リーダーを務めるというのは難しく、そしてしんどいことなのだと思います。
主にありて。
MAROでした。
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