「二人きりになってくれる神様」と二人きりになろう【聖書からよもやま話444】

主の御名をあがめます。

皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、 ネヘミヤ記の9章です。よろしくどうぞ。

ネヘミヤ記 9章2節

イスラエルの子孫はすべての異国の人々と関係を絶ち、立ち上がって、自分たちの罪と先祖の咎を告白した。(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

これはイスラエルの民が神様に礼拝をするシーンですが、「すべての異国の人々と関係を絶ち」とあります。このことが現代の僕たちにとっても祈りの態度のヒントになるのではないかと思います。

日本の社会や文化を観察してみますと、日本人は祈りを人前で行うことがとても多いなと思います。御先祖様に祈るお墓や仏壇は人から見えるスペースにあることが大半ですし、初詣なんていわば「年の初めの祈り」ですけど、ひっそりと祈ることはできません。もちろん、こういった祈りが必ずしも悪いものだと言っているわけではありません。クリスチャンだって礼拝や祈祷会では人の見ている前で祈ります。

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Unsplashsaeed karimiが撮影した写真

しかし大切なことは、こうした「人前での祈り」と別に、「誰にも見られない祈り」をしているかどうかだと思います。人前でだけ祈るというのではよくありません。時には「異国の人々」つまり「外の俗世」を断絶して、たった一人で神様の前に立って自らを省み、祈るという時間が、とても大切なのだと思います。

僕たちはそんな時間をもっているでしょうか。外の世界から自分を隔離して、神様と自分との二人きりになる時間があるでしょうか。特に自分の罪を告白するときには、そんな時間が必要かと思います。人の前で自分の罪を告白するのは難しいことですから。聖書の神様は「いつでも二人きりになってくれる神様」です。「会いに行ける神様」とか「会いに来てくれる神様」とかそんなレベルではありません。「二人きりになってくれる神様」です。しかも何かの握手会みたいに「一人2秒」なんて時間制限もありません。一日中だって一年中だって、いつでも二人きりになってくれるんです。せっかくそんな権利を持っているのに、二人きりにならないのはもったいないと思うんです。

それではまた。

主にありて。
MAROでした。

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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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