親しくなれない親睦会 井上 創 【地方からの挑戦~コレカラの信徒への手紙】

「いつか井上先生が道を歩くと、あの人は教会の牧師さんだと言われるようになれば嬉しい。そのためにも、地域のお役はできる限り引き受けたらいい」

長野県諏訪は富士見の地において長く牧会しておられた古清水光牧師のこの願いに導かれて、赴任早々私は中学校のPTAの役員を引き受けました。年度末、新旧役員の引き継ぎの後に親睦の会が開かれました。地域のお父さん、お母さんと仲良くなくなれるチャンスです!

私の経験上、親睦会といえば自己紹介から始まるものでした。しかし、この時は校長とPTA会長の開会のあいさつの後はそれぞれが勝手に会話を楽しみ、ついにこの会が終わるまで私は全体に向けて発言することはありませんでした。自分なりに周りの人に話しかけたりしたのですが、多くの時間、私は人の話を黙って聞くばかりでした。「親睦」の会とは一体……。しかし、このような親睦会であったことには理由がありました。実は私以外は皆、この地域で生まれ育ち、子どもも同じ保育園・小学校・中学校に通わせている顔見知りだったのです。よそ者は私ただ1人だけでした。

その場で話題となっていたことは、「小さいころはあの森でよく遊んだ」とか「中学時代のあの先生は厳しくて嫌だった」とか、地元の人にしか分からないことばかり。そういう話に混じって、「あの人は同じブロックだったからよく知っている」「あちらのブロックでは柱をひく人が少なくて困っている」などの声が聞こえてきました。これは御柱祭(おんばしらさい)について言っているのだということが、聞いているうちに私にも分かってきました。

写真はイメージ

富士見町は諏訪大社のお膝元であり、御柱信仰の盛んな地域です。地元の人たちは幼いころから御柱祭に親しみながら育ちます。祭りは7年ごとに行われ、ほぼ1年かけて準備が行われます。その際は諏訪全域を八つのブロックに分けて、人足を出し合います。年齢を問わず誰もが何らかの役割を担うため、そのブロック内の人たちは自然と互いのことを詳しく知ることになるのです。

親睦会の後、この地域において御柱祭が果たしている機能について私は考えました。「地域の人たちの心にあるのは諏訪大社への信仰ではなく、御柱祭による共同体意識なのではないだろうか」。おそらくこの地域に住む人々の御柱信仰の具体的な中身とは、教義や信仰体験ではなく、祭りを通して培ってきた自分たちの生活スタイルや、同じ体験を経ることで得た絆といったものなのでしょう。親睦会に参加した人たちは、この共通の経験を思い起こし、共有し直すことによって、自分たちの絆を再確認し、共同体として団結していこうとしていたのです。一方で、この地に育っていない私は少なからぬ疎外感を持ち、地方が閉鎖的であるとはこういうことかと実感しました。

諏訪大社だけではないでしょう。古い土着の宗教が根づいている地域に住む人々は、実は信仰というよりは共同体意識によって互いを結びつけ合ってきたのではないでしょうか。それでは、そういう地域において新興の宗教であるキリスト教が伝道していくためには、どんなことを心がけていけばいいのでしょうか。(つづく)

井上 創
いのうえ・はじめ
 1976年東京生まれ。明治学院大学、ルーテル学院大学、同志社大学神学部神学研究科卒業後、千葉教会、武蔵野扶桑教会、霊南坂教会を経て、現在、日本基督教団富士見高原教会牧師。趣味は漫画。

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