【連載小説】月の都(23)下田ひとみ

 

ある時、こんなことがあった。

謙作は疲れて会堂の椅子に座り込んでいた。無意識に独り言をつぶやいている。そこに陶子が姿を現したのだ。

「名倉先生、お一人ですか」

誰もいないと思っていたので、謙作はあわてた。

「あ、ああ……藤崎先生、いらっしゃったんですか……

「話し声が聞こえたように思ったんですけど」

「話し声?」

「でも、先生お一人ですよね」

陶子が怪訝(けげん)な顔で会堂を見回したので、謙作は観念して白状した。

「たぶん……私の、独り言だと思います」

「独り言?」

「ストレスかな。自分じゃ気づかないんですけど、一人でいると、独り言を言ってる時があるらしいんです。これがけっこう困りもので。道を歩いている時なんか、怪しいオジサンのように見られてしまって……

「名倉先生」

謙作は驚いた。両手で顔を覆ったと思うと、陶子がいきなり泣き出したからである。

「私に……何かあったら、先生の責任問題になりますよね」

謙作は内心の動揺を隠し、陶子を椅子に座らせ、自分も向かいに腰かけた。こんな陶子は初めだった。気づかれないように深呼吸をし、何を打ち明けられても対処できるようにと覚悟を決めた。

しかし、発作のような激情は、すぐにおさまったようだった。しばらくすると陶子はハンカチで涙を拭って言った。

「すみません、先生。何があったというわけではないんです。もっと気を楽に持つようにしなければいけないって思うんですけど、なかなかできなくて……

もの静かで落ち着いた声。いつもの陶子に戻っている。

謙作はホッとして応じた。

「藤崎先生は真面目だから……。でも、そこがいいところなんですから、それはそれでいいんです。別のところで肩の力を抜けば。おいしいものを食べたり、好きな音楽を聴いたり、映画を観たり、もっと自分を喜ばせることを、どんどんしてください」

「はい」

いい機会だと思い、謙作は陶子に心の内を打ち明けることにした。

陶子を招聘(しょうへい)できたことを心から喜んでいること。一緒に働いてみて、その判断が正しかったと思っていること。陶子の働きを誇りに思っていること。そして、妻の真沙子も自分も、陶子の助けになりたいと心から願っている、ということを──

謙作は少し照れながら、最後にこうつけ加えた。

「私でよかったら何でも話してください。どんなに小さなことでも、いつでも相談にのります」

「ありがとうございます」

泣いて気持ちがさっぱりしたらしかった。陶子はさわやかな笑顔で答えた。

しかし、このことをきっかけに、陶子が謙作に心を開くようになったかといえば、そうではなかった。性格といってしまえばそれまでだが、陶子は相変わらず周囲に気を遣い、本音を隠し続けているように謙作には思われた。

一見安定し、生活に馴染んでいるかに見える。だが、時おり見せるつらそうな表情や、ちょっとした言い訳、あるいは、以前にはなかった遅刻や欠勤が気になった。また、時にまるで反動のように起こる躁(そう)的な言動も見過ごせなかった。

その微妙な兆(きざ)しを拾い上げながら、謙作は陶子に対する不安を少しずつ募らせていったのである。(つづく)

月の都(24)

下田 ひとみ

下田 ひとみ

1955年、鳥取県生まれ。75年、京都池ノ坊短期大学国文科卒。単立・逗子キリスト教会会員。著書に『うりずんの風』(第4回小島信夫文学賞候補)『翼を持つ者』『トロアスの港』(作品社)、『落葉シティ』『キャロリングの夜のことなど』(由木菖名義、文芸社)など。

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