9月7日「人々は、叫び続けた」

しかし人々は、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた。(ルカによる福音書23章21節)

イエスを十字架につけたのは、だれかユダヤの宗教指導者たちは、主イエスが自分たちの体制を批判し、社会を覆す危険人物と見た。現状に満足している人には、罪を指摘して、き方を問う主イエスは、いて欲しくない

ローマ総督ピラトは、主イエスに罪がないと知ったが、人々の声を恐れて、死刑を宣告した神を恐れて正義を行うのではなく、人を恐れて行動するなら、無任にイエスを十字架につけるピラトと同じである

人生に快楽を求めるへロデは、永遠の世界を語るイエスを好奇な目で眺め、邪魔になってくると抹殺した人生に永遠の目的があることを認めない人は、主イエスに関心はない。しかし、主が悔い改めを迫ると、これを抹殺する

群衆は主イエスにイスラエルの解放を期待したが、期待を裏切られて失望し、その男を殺せ。バラバを釈放しろと叫んだ社会に幸福をもたらすバラバのような革命家、ご利益を約束するカリスマに期待する者にとって、自分の期待や願に応えないイエスは必要ではない

弟子たちは周囲の形勢が不利になると、の弟であることを恥じて、身を隠した。キリストであることを恥じて、仰をい表さない者は、主イエスを十字架につける加担者である。神の御子(みこ)を十字架につけたのは私であると知る時、私たちの罪を引き受けて十字架にかかり、神の赦(ゆる)しを執り成している主イエスの恵みが迫ってくる。「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」(ロマ5・20

内藤淳一郎

内藤淳一郎

西南学院大学神学部卒業後、日本バプテスト連盟の教会で牧会、鹿児島大学哲学科のカトリックの神学の学びから、鹿児島ラ・サール高校でも教える。日本バプテスト連盟宣教室主事、日本バプテスト連盟常務理事を8年間務める。

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