7月21日「主の霊がおられるところに自由がある」

主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。...主の霊のおられるところに自由があります。(コリントの信徒への手紙Ⅱ 3章16〜17節)

今日、世界は、戦争や民族紛争が絶えないが、日本の社会でも、いじめ、自殺、虐待、殺人、金品の詐欺、強盗、権力の私物化という問題を抱えて病んでいる。そして、これに危機感を抱き、罰則の強化など法律の改正によって、社会の秩序を回復しようとしている。

当時、イスラエルは社会を立て直すために、モーセの律法を掲げ、これを守らない者を罪人と呼び、社会から追放した。主イエスは社会から疎外された人々に手を差し伸べる一方、ユダヤ人指導者を批判した。パウロは主イエスの教えを継承し、律法によっては人も社会も救われない。真の自由がないならば、人々はただ律法の奴隷になると語った。

キリストの福音は、律法ではなく、人間を真に自由にする神の救いである。パウロは今日の聖句で、主イエスの方に向き直れば、罪人を救う神の恵みによって、罪の覆いが取り去られ、神を「アッパ、父よ」と呼ぶ神の子とされる、ここに自由がある、と語った。主に向き合えば、主の霊が私たちを律法の奴隷から解放し、律法を喜ぶ者とするのである。ルターが言ったように、キリスト者の自由は、王のように何者にも支配されない自由である。同時に、神の律法を喜び、すすんでこれに服従する神の僕の自由である。

現代の危機は、主に向き直る人間の出現を待っている。力を信ずる人間ではなく、神に贖(あがな)われた自由な人間の出現である。被造物は虚無に服し、うめきつつ、「神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます」(ローマ8・19)。

 






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