7月18日「キリストの前で、赦した」

わたしが何かのことで人を赦(ゆる)したとすれば、それはキリストの前であなたがたのために赦したのです。(コリントの信徒への手紙Ⅱ 2章10節)

コリント教会のある信徒がパウロの使徒職を中傷した。パウロは教会に手紙を書き、この出来事は個人的な問題ではなく、教会の問題であると言い、しかるべき処罰をするように要求した。教会はパウロの主旨を理解し、問題の人を処罰した。教会の処罰は、問題のある人を除外することが目的ではなく、その人に自分の罪を分からせることである。彼が罪を悔い改めるなら、教会は主にある兄弟を得るのである。

パウロは当事者が悔い改めたことを聞き、教会に対してその罰で十分であると言い、「その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけ」(7節)なさいと命じた。そして、「あなたがたが何かのことで赦す相手は、わたしも赦します」と言う。個人的な侮辱を受けた相手を赦すことは難しい。パウロが赦すのは、パウロが寛大な人間だからというのではない。今日の聖句にあるように、「キリストの前で」赦すのである。主の前に立つ時、主は「わたしはあなたの罪を赦した。わたしのために、その人を赦しなさい」と言われる。私たちは自分の気持ちに忠実であってはならず、むしろキリストの命令に従わなければならない。

さらに、パウロは「あなたがたのために赦した」と言う。パウロは「教会のために」赦すのである。教会が神の栄光を現す教会であるために、処罰を求めたパウロは、同じ理由で「赦しなさい」と言い、「わたしも赦す」と言う。「わたしたちがそうするのは、サタンにつけ込まれないためです」(11節)。教会が人を赦す場所でなければ、サタンが教会を壊すだろう。

 






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