あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。(ローマの信徒への手紙6章22節)
神は、見渡せば、あそこにいるというような方ではない。私たち自身が神の中に生き、動き、存在している(使徒言行録17・27)。創造者である神は、人類の歴史の中に働き、ご自身を啓示される。聖書は、人間が到達した宗教的真理や悟りの書ではなく、神の啓示の証言である。新約聖書は、主イエスの生涯に神の啓示を見、神の語りかけを聞いた人々の証言である。
神は主イエスの死と復活によって、人間を神に背かせる罪から解放し、神の支配のもとに生きる道を開かれた。それゆえ、人間は主イエスの死と復活による神の恵みを謙虚に受け入れることだけが求められる。
主イエスは「神を信じ、わたしを信じなさい」と言う。信じるか信じないかは人間の自由な決断である。中間はない。しかし、信じるか信じないかによって、その結果はまったく違ってくる。神を信じない人は、人間が絶対であるとすることによって、神を斥(しりぞ)け、神に敵対する罪の奴隷となっている。一方、神を信じ、聖書から神の言葉を聞いて生活する人は、神の恵みによって生きる。神の存在は理性では証明されないが、信仰生活によって証明される。
使徒パウロは今日の聖句で、信仰生活の祝福を端的に語る。神はいないと言っていた時は、神に敵対する罪の奴隷であり、その行き着く先は魂の死であった。しかし、神を信じ、神に仕える道を歩む時、その行き着くところは永遠の命である。それゆえに、信仰者は死に向かって今日一日を生きるのではなく、「主の日」に向かって今日一日を神に仕えて生きるのである。