牢獄からの神の解放 父権的イメージの刷新 女性の経験通じ再発見を エリザベート・モルトマン=ヴェンデル氏 【再録】1996年11月2日

 J・モルトマン氏の訃報を受けて、1996年にそろって来日した妻のエリザベート・モルトマン=ヴェンデル氏による講演要旨を再掲する。

モルトマン夫妻招聘委員会(喜多川信委員長)の招きで来日したドイツの女性神学者エリザベート・モルトマン=ヴェンデル氏は、10月4日、日本基督教団信濃町教会で「フェミニズム神学とは何か――女性神学をめぐる状况規定」と題して講演し、全体性をもとめる女性たちに既成の教会は応えられるのか、と問いかけた上で、聖書の男性的な読みから生まれてきた神のイメージを「男性でも女性でもない」本来の神の姿にもどし、女性たちにも慰めを与えられる豊かな神のイメージをさぐる試みを紹介した。(講演要旨)

男性的な原理と構造もつ「教会」

フェミニズム神学とは、女性による女性たちのための神学であり、D・ボンへッファーの「獄中神学」やアメリカで生まれた「黒人の神学」、ラテン・アメリカの「解放の神学」と同じく経験的な神学で、神学の新しい精神をひらく。女性と女性的な文化の捨て去られていた価値を再ぴ一般社会にもたらそうと試みるフェミニズムは、父権的文化に支配されてきた私たちの思考様式、行動様式への文化革命である。神学はこの父権的システムの中で発展してきた合理的、理性的、二元論的な思考樣式の影響を受け、また教会はこのシステムを正当化してきた。男の女に対する、主人の奴隷に対する、意志の感情に対する、精神の肉体に対する支配であり、自然に対する歴史の優位である。アウグスティヌスからカール・バルトにいたるまで、教会の偉大な神学者たちはその実例。今日女性たちは自らのアイテンティティーを搜し求めているが、男性の救い主と男性の十二使徒の上に基礎づけられ、その職務が今日にいたるまで男性の手に握られている機構、「教会」の中に、女性たちはアイデンティティーを見いだせるだろうか?

このとき「全体性」というフェミニズムのキーワードが問題になる。全体性とは、男性原理によって切り雕されてきたものの結合であり、肉体と精神、大地と天、男性と女性、技術と自然の結合などを意味する。それは、周辺化されてきた感覚的な領域を中心的な場所に取り戻すこと、男性的心理学によって吹き込まれてきた女性の人格の劣った部分を受け入れること、環境破壊を行ってきた二元論的自然観への抵抗である。全体性は世界の根本的な変革を求める。これに対してキリスト教はどのように応えられるのか。伝統的に人間を罪の存在としてきたキリスト教の中に、全体性を求められるのだろうか。

女性の全体性回復させるイエス

過去20年間福音書に出てくる体の物語を読んできた結果、イエスと女性たちの物語には失われた全体性が再ぴ見いだされるということがわかってきた。出血の止まらない女の話、体の曲がった女の話の中で、イエスは全体性を提供している。イエスは祭儀的にも社会通念から言っても汚れた体を持つものとされていた女性たちに対して、いかなる恐れも持たず、その女性たちを受け入れ、彼女たちを独立的な人間にした。イエスはご自分も全体的な人間なのである。また新約聖書の有名な女性たちの多くは、家庭の貞淑な母親でも使徒たちの助手とか世話係とかいうのではなく自立した人々で、例えば女性の監督フェベや使徒ユニアなど、またマグダラのマリアやマルタなど教会の指導者として男性と同じ役割を果たしていた。初代の教会は周辺世界の父権的な構造がその始まりを飲み込んで階層的な発展が始まるまでは、古代世界の多くの地域で平等のエートス(行動規範)を生き、また宣べ伝え、「全体性」を実践していたに違いない。事実、ナグ・ハマディの発掘によって、女性たちに指導されていた教会が3世紀ころまで存在していたことも確認されている。そして新約聖書には父権的でない教会をめざして教会が形成されつつあった。マルコによる福音書10章29節でイエスは捨てたものを再び見いだす、と語り「家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者」に約束されるのは「家、兄弟、姉妹、母、子ども、畑」でありそこには父は見いだされない。明らかにイエスは父権的構造を脱けだそうとしていた。

しかし、全体性と平等に関するこの証言は新約聖書の中においてでさえも、ぼやけ始めている。最古の福音書マルコでイエスの頭に油を注ぐ女はルカでは罪にまみれた女とされ、イエスの苦難を見届ける女は、ルカではその補助的役割へと描かれ、自立的女性像は伝統的な女性の役割へと再逆戻りさせられている。

そこなわれてきた神のイメージ

私たちは旧約聖書においては神を主として見ることを、新約聖書においては父として見ることを学んだ。ユダヤ――キリスト教的な伝統において優勢な男性的イメージを否定することはできないであろうが、実際この神はどれだけ男性的であったのだろうか。米国のヴァージニア・モレントは「父権制のメガネをはずすと神が女性であることに気付く」と言っている。事実多くは男性によって翻訳され、解釈されてきた聖書の理解では神のイメージをそこなうこともある。女性旧約学者シュンゲル・シュトラウマンは、神のイスラエルに対する愛に関する有名なホセアの言葉、ホセア書11章が神の父権的な愛ではなくて、母親の愛を意味することを確認した。神はその民に乳を含ませ、腕に抱えて世話をし、胸に抱いて栄養を与える、というのである。また知惠文学の洪水物語では、知恵の顔をした神、守り、維持し、救い、いやす、破壊的な特徵は何一つ持たない女神の顔をした神が知恵の書10章に現れる。ここでは、喜びと愛から従うという、母性的、母権的イメージが従順な服従という父権的なイメージより優勢。

私たちは神を父権的な牢獄の中から解放し、神の多くの名前やイメージを私たちの伝統の中で、私たち自身の中で、再ぴ発見しなければならない。神は男性でも女性でもない、神は歷史の中で男性にされたのである。そして私たちの課題は、女性たちの経験から再びいきいきとよみがえらされた神を、今度は女性の牢獄へと押し込められないようにしなければならない。

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