万人祭司実現のため――「牧師」を「牧使」に 細川勝利 【夕暮れに、なお光あり】

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6年前、80日間の入院をしている間、なぜ多くの日本語訳聖書は牧会者を「牧師」と翻訳し「牧使」と翻訳しなかったのかと思い巡らしていた。日本のプロテスタント教会では牧会者を「先生」と呼ぶところが多い。もし牧会者を「牧使」と翻訳していたなら牧会者を「先生」とは呼ばなかったのではないか。そんなことを考えていた。

小生が牧会者になった20代後半は、「先生」と呼ばれ面映しかったが、次第に「先生」と呼ばれないと不満に思うようになっていた。また牧会者同士も疑問なく「先生」と呼び合っていた。しかし牧会者として失敗を重ねるにつれ、「先生」と呼ばれることに疑問を持ち、また牧会者仲間で「先生」と呼び合うのも異常に思うようになった。教会は「神の愛による家族」であり上下関係はなく、皆平等であると言うが、実際は教会内に「牧師と信徒」「先生と生徒」という上下関係がある。

その原因の一つは牧会者を「牧師」と翻訳したことと考えている。もし牧師を「牧使」と翻訳していたなら、牧会者と信者は上下関係でなく、平等な兄弟姉妹の共同体となったのではないか。「使」は「遣わされた者、仕える者、僕」の意である。古くは遣唐使などの「使」である。

さらに重要なことは、日本語聖書は十二弟子を「使徒」と訳していることである。これは名訳ではないだろうか。使徒に「使」が用いられているように、牧会者を「牧使」と訳すことが聖書の牧会者を正確に表現することと思う。

またプロテスタント教会のアイデンティティーの一つは「万人祭司」である。しかし、日本では宗教改革が意図した「万人祭司」が実現しているとは言い難い。牧会者と信者が神の前に共に「万人祭司」とされている関係ではなく、「先生と生徒」あるいは「上と下」という関係ではないだろうか。万人祭司であるならば、牧師と信徒の上下だけではなく、年齢や性別、さらに健康状態、社会的地位などにおいても、上下があってはならない。私たち高齢者も、たとえ若い方々と比べ教会生活が長くとも、「上」ではなく、互いに仕え合うことが求められている。

健康であれば教会学校の教師として仕えることもできるだろう。生活の知恵を分かち、若い家族のサポートをすることもできるだろう。教会は神の愛による家族であるなら、高齢者にも期待されているはずだ。以上のことを思い巡らして、「牧使」として兄弟姉妹と共に「真のプロテスタント教会」となるよう祈り続けている。

 「キリストは、私たちの平和であり、二つのものを一つにし、ご自分の肉によって敵意という隔ての壁を取り壊し」(エフェソ2:14)

 ほそかわ・しょうり 1944年香川県生まれ。東京で浪人中63年キリスト者学生会(KGK)クリスマスで信仰に。聖書神学舎卒後72年から福音教会連合浜田山キリスト、北栄キリスト、那珂湊キリスト、緑が丘福音、糸井福音、日本長老教会辰口キリスト、パリ、ウィーン、ブリュッセル、各日本語教会で牧会。自称フーテン僕使。ただ憐れみで今日に至る。著書に『落ちこぼれ牧師、奮闘す!』(PHP出版)、『人生にナイスショット』(いのちのことば社)など。

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