わたしは道であリ、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。(ヨハネによる福音書14章6節)
主イエス・キリストは道である。この道は、主イエスが十字架と復活によって備えてくださった「天の国」に至る道である。主はこの道に私たちを招き、同伴してくださる「同行二人(どうぎょうににん)」である。さびしい山道を歩む時も、人がごった返す街道を歩む時も、私たちは主を見失わないように、この道を歩む。
この巡礼の旅路の先には、天の家が待っている。死は、この世と来るべき世との境界線であり、天の国への門である。死ぬ前の意識の混濁(こんだく)は、地上の体を脱ぐためである。天の国では、天に属する復活の体が与えられるのである。
天の国はどんな場所か、聖書はその情景を事細かには述べない。「天の国」はこの世の延長ではない。「新しい天と新しい地」が現れる(黙示録21・1)。義と愛をもって支配する神を、今よりも身近に知る世界である。今は、主について一部分しか知らなくても、その時には、「顔と顔とを合わせて」お会いする(Iコリント13・12)。その時、「私たちがどのようになるか、まだ示されていない」。私たちは神になるのではない。「御子に似た者となる」(Iヨハネ3・2)。罪の体が贖(あがな)われ、主イエスのように神の御心(みこころ)に叶(かな)う者とされる。
天の国に至るキリストの道はこの地上にある。今、この地上で、真理であり、命であるキリストの道を選ぶことによって、その道が天の国に至る。私たちはキリストの道を選び、主イエス・キリストを仰ぎつつ、その道を歩む。この地上で、主に導かれて、「信仰と希望と愛」(Iコリント13・13)の道をしっかりと踏みしめて歩むのである。