【検証 〝協会〟の実相と教会の課題】 〝本物〟を提供する責任 日本キリスト改革派教会関キリスト教会牧師 橋谷英徳さん

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宗教から距離置いた結果
カルトへの免疫希薄

統一協会ということで思い出されることがいくつかある。一つは少年だったころのこと。当時の実家のすぐ近くに懇意にしている家族があった。その家族に歳が二つほど上の双子の姉妹がいて、よく遊んでもらっていた。ソフトボールのチームで一緒に小規模な大会に出場したりもした。彼女たちは、運動能力にとても長けていて、尊敬の対象だった。けれども当然のことながら成長し高校に入るころになると、まったく話すことはなくなっていた。しかし、この双子の姉妹はある日、忽然と姿を消してしまった。聞くと統一協会というところに入信したためだという。彼女たちの父は代議士の秘書であった。それ以来、彼女たちとは一度も会っていない。「統一協会」という言葉を初めて聞いたのがこの時であった。

大学入学のために田舎から神戸に出てきたばかりのこと。三宮のセンター街を歩いていると同年代の女性に突然に声をかけられた。アンケートに答えてくれとのことであったので答えていると、近くにビルがあるのでそこに一緒に来てくれないかと言われ、ついていってしまった。そこで観せられたビデオにヨーロッパやアメリカの学者たちが登場していたことは覚えている。ビデオを観終わると彼女と近くのカフェでお茶を飲み別れた。何を話したかはまったく覚えていない。聡明な人だった。それから数日後、彼女から手紙が来た。数回、やりとりが続いた。聖書の言葉が引用されていたことを覚えている。途中でこれが統一協会だということが分かってきて、丁重に断りの手紙を記した。その後しつこく勧誘されるというようなことはなかった。この出来事は数年の間、遠ざかっていたキリスト教会に足を踏み入れるきっかけの一つとなった。しっかりとした信仰がないと引きずられてしまうと思った。聖書を読もうと強く思った。

作家の村上春樹はカルト宗教をドーナツにたとえている。人間の中心(「魂」「ゼーレ」とも)の部分が消えてしまう。その人がその人であることを喪失してしまう。そういうことを起こすのが、カルトということであるというのはしっくりくる。

だとすれば、カルトは統一協会だけではない。カルト宗教と呼ばれるような新興宗教だけではないし、宗教の枠すら超えることでもある。統一協会だけのことを考えてもマスコミやツイッター界隈で語られている以上に、私たちが考えている以上に、実は今の日本の社会の内部に、生活のすぐ近いところにひたひたと浸透しているように思えてならない。

統一協会の問題点は広く知られている霊感商法だけではない。例えば自己啓発セミナーなどを通して企業にも浸出している。信者の中には自分が信者であることは隠しているケースも多い。地位のある評判の良い人であることも少なくない。そして何よりも政界である。特に自民党(および一部の野党)はその創立期から深く関わっていた。「#自民党は統一教会だったんだな」というキーワードがツイッターでトレンド入りをしている。かねてからある程度のことは承知していたが、このところ明らかになりつつある事象は想像をはるかに超えている。呆然自失である。戦後これまでのこの国の歩みは一体何だったのだろうか。もしかするとおよそこの日本に生きる人たち、そのものがカルト化しているのかもしれない。「日本国は統一協会だったんだな」というような……。

声を大にして今この時、どうしても伝えたいことがある。「これだから宗教は怖い、宗教からは距離を置こう!」――この発想ほど危険なものはない、それは危ない! 日本は宗教を忌避し、宗教から距離を置いた結果として、こうなっているのだ。カルトへの免疫がない、だから感染してしまう。人々が宗教を忌避している状態はカルトの温床となってしまう。世界の国々でこんなにも宗教や信仰から人々が遠ざかっている国は一部の独裁国家を除けばおそらくない。言うまでもないが、教会にも大きな責任がある。本物に触れなければまがいものを見分けることはできない。信じる、信じないは個々人の極めてパーソナルな出来事であって、そこに介入するつもりはない。ただ、昨今の脱宗教の論調とは真実は逆であるということだけは断言できる。それは先にも述べたような自身の経験にもよる。負のスパイラルが止められなければならない。キリスト教会には〝本物〟を提供する責任が課せられている。そのためにどうしたらよいのかをもう一度よく考えたい。

(はしたに・ひでのり)

【検証 〝協会〟の実相と教会の課題】 親の愛に心引き裂かれて… 月刊「舟の右側」編集長 谷口和一郎さん 2022年9月1日

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