【夕暮れに、なお光あり】 ついてない、ということ 小島誠志 2020年8月1日

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 倉本聡脚本のテレビドラマ『やすらぎの刻~道』を楽しみに観ていました。ドラマの主人公と思しき男の口ぐせが「ついてない」という言葉でした。

 共感しました。つい最近まで、自分はついてない、と思い続けてきたように思います。駅前の飲み屋などという環境の悪いところで、なんで育たなければならなかったのか。もう少し自分に能力があれば、もっとできることはいっぱいあったのに。

 ついてる人はトントンと階段を上がっていくのに、愚鈍な自分は次元の低いところで泥土に足をとられながらジタバタしている。道草。

 「ついてない」。

 ルカによる福音書19章11~27節に、ムナのたとえがあります。「ある身分の高い人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へと旅立つ」のです。その際彼は、10人の僕を呼んで10人に10ムナの金を渡した、というのです。そして「私が帰って来るまで、これで商売をしなさい」と言って旅立ちました。

 並行記事がマタイによる福音書25章14~27節にあります。そこでは金持ちの主人が僕たちを呼んで、ある僕には5タラントン、ある僕には2タラントン、ある僕には1タラントンを預けて旅に出たとなっています。

 二つのたとえ話は似ているようで決定的に違っています。「身分の高い人(主人)」がそれぞれ僕たちに多額のお金を預けるのですが、ルカでは1ムナずつ等分に預けるのです。マタイではそれぞれに5タラントン・2タラントン・1タラントンを預けます。マタイの方が分かりやすいのです。救い主から預けられた賜物が違う。たいていの人はこう思います。1タラントンの人というのは自分のことだ、と。他の人間と比べてタラントンが少なくとも、腐らず、喜んでそれを働かせなければならない、と。

 しかし、ルカのたとえ話の意味が最近分かるようになりました。預けられた賜物は同じ、というメッセージなのです。人の目には恵まれている、5タラントンに見える。賜物に恵まれていない1タラントンに見える。しかし救い主の目から見たら、みんな同じなのです。上も下もない。救い主の恵みにこたえる賜物はそれぞれ十分に与えられている――そう言われているのです。

 「ついてない」なんてことはないのです。病を取り去ってくださいと祈るパウロに主はこたえられました。「私の恵みはあなたに十分である」と。

 おじま・せいし 1940年、京都生まれ。58年、日本基督教団須崎教会で受洗。東京神学大学大学院卒業。高松教会、一宮教会を経て81年から松山番町教会牧師。96年から2002年まで、日本基督教団総会議長を3期6年務める。総会議長として「伝道の使命に全力を尽くす」「青年伝道に力を尽くす」などの伝道議決をした。議長引退後は、仲間と共に「日本伝道会」を立ち上げて伝道に取り組む。現在、愛媛県の日本基督教団久万教会牧師。著書に『わかりやすい教理』『牧師室の窓から』『祈りの小径』『55歳からのキリスト教入門』(日本キリスト教団出版局)、『夜明けの光』(新教出版社)、『夜も昼のように』『わたしを求めて生きよ』『朝の道しるべ』『虹の約束』(教文館)など多数。

 






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