11月25日 ヘブライ人への手紙7章27節

この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。
ヘブライ人への手紙7章27節(参照箇所同書7:26〜28)

 

大祭司といえども人間ですから、律法の規定によれば、年に一度は罪の贖(あがな)いの犠牲を捧げなければなりませんでした[レビ16章34節]。ここには人間のすることには、一回限りで、よしとされることがないのだという意味が込められているのです。

キリストがされることは、一回限りです。その一回限りキリストがされたことは、十字架の贖いの出来事です。その贖いのわざにわたしたちたちは与り、罪赦(ゆる)された者となります。

洗礼を受けた方が、もう一度洗礼を受け直して、きちんとした信仰生活を送りたいなどと言われることがありますが、旧約の大祭司でさえも年に一度罪の贖いの献げ物をした事を考えれば、正直な人の思いの告白です。

しかしながら、一度限りのキリストの贖いのわざに与った者は、一度限りの洗礼において、罪の赦しを受け、永遠の命に与った者です。ルターは、「わたしは罪人であると告白するとき、わたしたちの罪はわたしにはない。わたしの罪はキリストにある」と申しました。キリストのわざが、一回限りであるので、この告白ができるのであります。

 






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