そこにイエス様はいたのか 井上 創 【地方からの挑戦~コレカラの信徒への手紙】

水に溺れた時に大切なのは、まず力を抜くこと。力が抜ければ、あとは自然と水が体を持ち上げてくれる。それが分かっているのに、焦って手足を懸命に動かして、体中に力を入れた結果、水に沈んでいく。力を抜けばいいのに。自分の体に言うことを聞かせることができない。そんなわけで、私は未だに25mを泳ぎ切ることができません。

がんばろうとすること。何とかしようともがくこと。それが無駄なこととは言いません。でも、焦って結果を出そうとすることで、かえって物事がうまくいかなくなることもあるのではないでしょうか。

将来計画部で、「伝道」をテーマにして話し合っていた時のことです。何人かの人が「私たちはかつてこんな取り組みをした」と語ってくださいました。著名な音楽家を招いてコンサートをしたとか、若い母親たちを集めて子育ての悩みについて聞き合う会を催したとか。しかし、「こういうことをした」と言った後、決まって誰もが黙り込むのです。私はその沈黙の中に込められた思いを想像してみました。

「あのころは楽しかったなぁ。でも、もう今は年をとったし、あんなたいへんなことはできないだろう」。あるいは、「あの時はがんばったなぁ。でも、誰一人として教会につながらなかった……」。そんな風に沈黙を解釈した私は、この教会が伝道のために費やしてきた日々をまぶしく思うとともに、かすかな違和感を覚えました。

そして、私が考えたこと。それは、そこにイエス様はいたのか、ということです。伝道とは、「イエス様を宣べ伝える」ことです。しかし、宣べ伝えることに一生懸命になる余りに、「私たちが宣べ伝える」ことが伝道になってしまっていることがないでしょうか。私たちが何をしたか。それによって私たちは何を得たか。どれだけのことをして、どれだけの成果を得たか。がんばって、一喜一憂して。いつの間にか、「私たち」が伝道の主体になってしまってはいないでしょうか。

では、その時イエス様はどこにいるのか。私は思うのです。それでもイエス様は私たちと一緒にいてくださる、と。浮かぼう、泳ごう、息を継ごうと必死にジタバタしている私たちを、それでも水は包んでいてくれています。本当は私たちを浮かせてくれようとしている水に身を委ねればいいのに、むしろその水が私たちを焦らせ、疲れさせ、「どうにかしなければならないもの」になってしまっている。私は教会の皆さんの沈黙が、そうして自力でもがいたことによる疲れや、結果の出ない虚しさから来るものだと感じました。

UnsplashWesley Tingeyが撮影した写真

伝道とは実は、私たちとともにいてくださるお方を見つけて、そのお方と一緒にいる喜びを感じることなのではないでしょうか。企画そのものは何でもいいのです。いっそ、何もしなくたっていい。私たちがともにいてくださるお方の存在を喜びとして感じているならば、そしてその姿を多くの人に見てもらえるなら。それはもうイエス様の愛を伝える「伝道」となっているのではないでしょうか。どれだけの実りがあるかは神様にお任せしましょう。誰も教会につながる人がいないとしても、イエス様が一緒にいてくれる喜びが私たちの成果だということにしましょう。

そんなわけで。地方から、中央から「挑戦」をしようとしている皆さん。時には力を抜くこと、いっそ今取り組んでいることをやめて何もしないことに挑戦してみるというのはいかがでしょうか。委ねてユラユラ。どこへ流されるかは風(聖霊)任せ。その方がイエス様を近くに感じて喜びに満たされる、なんてことがあるかもしれませんよ。

井上 創
いのうえ・はじめ
 1976年東京生まれ。明治学院大学、ルーテル学院大学、同志社大学神学部神学研究科卒業後、千葉教会、武蔵野扶桑教会、霊南坂教会を経て、現在、日本基督教団富士見高原教会牧師。趣味は漫画。

関連記事

この記事もおすすめ