待つのに疲れたら休んでみたらどうなるだろう?【聖書からよもやま話220】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、    詩篇の27篇です。それではよろしくどうぞ。

◆詩篇 27篇14節

待ち望め 主を。
雄々しくあれ。心を強くせよ。
待ち望め 主を。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

神様は僕たちに「待っていろ」と言います。待っている間は「心を強くして雄々しくあれ」つまり「弱きになるなよ」と言います。

しかし、待つのって実は人間にとってストレスですよね。何を待つにせよ、長く待たされていると疲れてもきますし「本当に来るんだろうか」と不安にもなってきます。そんな心を知っているからこそ神様はわざわざ「心を強くせよ」と言ってくださっているのですが、とはいえそれでも僕たちは心を長く待たされれば心も弱ってきてしまうものです。

「待つ」というのは「何もしない状態」です。何かをするのであれば、それをしているのですから「待つ」とは違う状態です。と、いうことは、これは「休む」とも言い換えられるのではないか、なんてことをちょっと思いつきました。「主を待ち望め」というのを「主が来るまで休んでいなさい」と言い換えたらどうなるでしょう。ちょっと心が楽になりますよね。人間同士でも「ちょっと待ってて」と言われるのと「ちょっと休んでて」と言われるのでは心のあり方が違います。カップラーメンを作る時に「3分待つ」というのを「3分休む」と読み替えても、それほど問題はないし、その3分のストレスは軽減されるかもしれません。

もちろん、神様が「待て」と言っているのを勝手に「休め」と言い換えてはいけないのですけれども。でもちょっとここの箇所を読んで「待つ」と「休む」の関係についてこんなふうに思うところがあったので書いてみました。必ずしもいつもではないでしょうけれど、でも「待つ」のがしんどくなってきた時は、それを「休む」に切り替えていいケースもあるのではないかと。

だって「待つ」のって、特にひたすら長く「待つ」のって、ストレスですもの。だから詩篇では何度も何度も「いつまでですか」という叫びが登場するんですよね。聖書の時代から、人間は変わらずに何かを待つものですし、それは「いつまでですか」という問いを含み続けているんです。

それではまた明日。

主にありて。
MAROでした。

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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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