主の御名をあがめます。
皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、 詩篇の27篇です。それではよろしくどうぞ。
◆詩篇 27篇14節
待ち望め 主を。
雄々しくあれ。心を強くせよ。
待ち望め 主を。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
神様は僕たちに「待っていろ」と言います。待っている間は「心を強くして雄々しくあれ」つまり「弱きになるなよ」と言います。
しかし、待つのって実は人間にとってストレスですよね。何を待つにせよ、長く待たされていると疲れてもきますし「本当に来るんだろうか」と不安にもなってきます。そんな心を知っているからこそ神様はわざわざ「心を強くせよ」と言ってくださっているのですが、とはいえそれでも僕たちは心を長く待たされれば心も弱ってきてしまうものです。
「待つ」というのは「何もしない状態」です。何かをするのであれば、それをしているのですから「待つ」とは違う状態です。と、いうことは、これは「休む」とも言い換えられるのではないか、なんてことをちょっと思いつきました。「主を待ち望め」というのを「主が来るまで休んでいなさい」と言い換えたらどうなるでしょう。ちょっと心が楽になりますよね。人間同士でも「ちょっと待ってて」と言われるのと「ちょっと休んでて」と言われるのでは心のあり方が違います。カップラーメンを作る時に「3分待つ」というのを「3分休む」と読み替えても、それほど問題はないし、その3分のストレスは軽減されるかもしれません。
もちろん、神様が「待て」と言っているのを勝手に「休め」と言い換えてはいけないのですけれども。でもちょっとここの箇所を読んで「待つ」と「休む」の関係についてこんなふうに思うところがあったので書いてみました。必ずしもいつもではないでしょうけれど、でも「待つ」のがしんどくなってきた時は、それを「休む」に切り替えていいケースもあるのではないかと。
だって「待つ」のって、特にひたすら長く「待つ」のって、ストレスですもの。だから詩篇では何度も何度も「いつまでですか」という叫びが登場するんですよね。聖書の時代から、人間は変わらずに何かを待つものですし、それは「いつまでですか」という問いを含み続けているんです。
それではまた明日。
主にありて。
MAROでした。
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