主の御名をあがめます。
皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、 詩篇の52章です。それではよろしくどうぞ。
◆民数記 6章2節
イスラエルの子らに告げよ。
男または女が、主のものとして身を聖別するため特別な誓いをして、ナジル人の誓願を立てる場合、
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
イスラエル12部族の中で、神様に直接仕えるのはレビ人だけでした。レビ人に生まれなければ原則としては神様に直接使えることはできませんでしたが、そのルールにも例外があり、自ら誓いを立てて一定の約束を守れば、ナジル人として神様に仕えることができました。
しかし、その「一定の約束」というのは難しいものでした。まず「ぶどう酒を飲んではいけない」ぶどう酒どころか、ぶどうそのものや、ぶどうからできたあらゆるものを口にしてはいけませんでした。つぎに「髪を切ってはいけない」仏教では出家するお坊さんは(宗派にもよりますが)髪の毛を剃りますが、ナジル人になるためには反対に髪を切ってはいけなかったんです。そして「死者にふれてはいけない」たとえ親兄弟が死んだとしても、弔うことはできなかったようです。
神様に身を献げる、すなわち献身というのは生半可な覚悟ではできないな、と思わされます。もちろん現代では牧師や神父になる時に「親兄弟が死んでも弔うな!」なんてルールはありませんし、「髪を切るな!」というのもありませんけれども。
ここでちょっと注目したい点は、ここに「男または女が」と書いてある点です。誓いを立ててナジル人になる要件に、性別は関係なかったんです。これは即ち「神様に仕えるのに男も女も関係ない」ということかと思います。「キリスト教は女性蔑視をする」なんて、世から言われることも多々ありますし、教派によっては女性教職を認めないケースも実際にあるのですけれど、聖書自体を読んでそれに従うならば、「キリスト教は女性蔑視だ」というのは誤解だと思います。
それではまた明日。
主にありて。
MAROでした。
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