【Web連載】「14歳からのボンヘッファー 」(11)ボロボロの飼い葉桶には クリスマスの指針 福島慎太郎

「ベツレヘムの馬小屋の中の飼い葉桶のかたわらには、聖職者や神学者はひとりもいなかった」

ボンヘッファーはこの言葉からクリスマスを語り始める。2000年前のあの夜、病院や自宅はおろか、医師や牧師もそこにはいなかった。これから生まれてくる我が子が神の子であると知り、不安でいっぱいの両親。そして羊飼いと占星術の博士に囲まれて彼は誕生した。クリスマスはその始まりから混沌としていた。

しかしここにこそ奇跡がある、言葉では語り尽くせぬ神の栄光に照らされている。現代の教会はこの物語をどのように、そしてキリストをどのように語ろうとしているのだろうか。ボンヘッファーは古代教会を例にこう述べた。

 「古代教会のキリスト論は、実際ベツレヘムの飼い葉桶のかたわらで成立した。風雨にさらされてぼろぼろになったこの飼い葉桶には、クリスマスの輝きがある」

クリスマスとはろうそくの灯火で心温まりながら救い主が生まれた日ではない。孤独と絶望の間から一人の子が生まれたのだ。キリストはその生涯の始まりから人の最も暗い部分を背負い誕生した。「神の子」という称号は、往々にして人間離れした人物に付けられることが多い。しかし真の神の子は最も人間的であり、最も人間を知る者である。

またキリストは一人の人間であると同時に「人間の本性」そのものをとったと神学の世界ではよく説明される。一見すると難解なこの用語をボンヘッファーは

 「『人間の本性』とは、あらゆる人間の本性、あらゆる人間の本質、あらゆる人間の肉を意味する。そしてそれゆえにこそ、『人間の本性』は、また、私の本性、私の肉をも意味するのである」

と表現する。それはすなわち、

 「神はイエス・キリストの誕生において、ただ単に、一人の人間になっただけではなく、人間性そのものをとったのである。それゆえ、イエス・キリストの体は、われわれの『肉』となったのである。イエス・キリストはわれわれの肉をまとった。したがって、イエス・キリストがいるところには、われわれもいるのである」

とボンヘッファーは語っている。

一般的に神とはどこか遠くにいる。もしくは掴みどころのない存在として描かれる。しかしキリストが生まれた時、天使はこの人を「インマヌエル」(神我らと共に在り)と名付けた。つまりクリスマスのメッセージとは単に一人の子どもがうまれただけでなく、その方が人間そのものであり、私たち自身なのであると語っている。もう一歩踏み込もう。「自身」とはなんであるか。ボンヘッファーはこう語る。

 「イエス・キリストの身に起こることは、われわれの身にも起こることである。あの飼い葉桶の中に横たわっているのは、われわれすべての『哀れな肉と血』であり、イエス・キリストが服従と苦しみにおいて聖化し、純化したのは、われわれの『肉』なのである。そして、イエス・キリストと共に十字架につけられて、死に、イエス・キリストと共にほうむられたのだ、われわれの『肉』にほかならないのである」

これがクリスマスの奇跡である。つまり「あなたがたは受け入れられている。神はあなたがたをさげすむようなことはせず、あなたがたすべての肉と血とをそのまま受けいれたのだ」という指針である。

飼い葉桶を見よう。そこには一人の幼子がいる。そこには私たちの「肉」がある。あらゆる困難や不安、絶望がある。そしてそれらは今、担い、赦し、聖めようとされている。この人を見よ。キリストは今、あなたと共にいる。

 ふくしま・しんたろう 牧師を志す伝道師。大阪生まれ。研究テーマはボンヘッファーで、2020年に「D・ボンヘッファーによる『服従』思想について––その起点と神学をめぐって」で優秀卒業研究賞。またこれまで屋外学童や刑務所クリスマス礼拝などの運営に携わる。同志社大学神学部で学んだ弟とともに、教団・教派の垣根を超えたエキュメニカル運動と社会で生きづらさを覚える人たちへの支援について日夜議論している。将来の夢は学童期の子どもたちへの支援と、ドイツの教会での牧師。趣味はヴァイオリン演奏とアイドル(つばきファクトリー)の応援。

【Web連載】「14歳からのボンヘッファー 」(10)アドヴェントの心得 福島慎太郎 2023年12月15日

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