この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。(ルカによる福音書4章21節)
ナザレの会堂において、主イエスは、「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである」(18節)というイザヤの預言書を朗読し、人々に今日の聖句を語った。主イエスはご自分を「油を注がれた」メシア(救い主)であると宣言した。この宣言を耳にする「今日」、主イエスの霊によって、捕らわれている人は解放され、目の見えない人は見えるようになり、圧迫されている人は自由にされる。
主イエスがザアカイの家に泊まり、食事を共にした時、ザアカイは主に向かって悔い改めの決意を表明した。主イエスの愛が聖霊によってザアカイの心に注がれたので、彼は貪欲の罪から解放された。その時、主は「今日、救いがこの家を訪れた」(19・9)と言った。主イエスと共に十字架にかけられた強盗の一人が、主の憐れみを願うと、主は「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(23・43)と言った。彼の死は天における新しい誕生となった。主イエスが言う「今日」とは、翌日になれば、昨日になる今日ではない。主イエスの言葉と業によって、神の国の救いにあずかる永遠の「今日」である。主イエスの言葉が私たちの耳に届く「今日」、私たちは罪からも、貧しさからも、死からも解放される。その時、私たちは神の国にいる。父なる神の家に迎えられて、神の恵みによって生きるようになる。この世において、病気になったり、侮辱を受けたり、悲しいことや苦しいことがあっても、私たちは主の言葉によって慰められ、望みを与えらて、すでに神の国にいる喜びを味わっている。