主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は旧約聖書、歴代誌第二の16章です。よろしくどうぞ。
歴代誌第二 16章7節
あなたはアラムの王に拠り頼み、あなたの神、主に拠り頼みませんでした。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
イスラエルの国が南のユダ王国と北のイスラエル王国に分裂していた頃、北のイスラエル王国の王バシャが、南のユダ王国への攻撃準備を始めました。南の王アサは隣国であったアラムのベン・ハダデと同盟を結んで「抑止力」を高め、これを撃退しました。
外交によって国を守ったアサは明君として後々まで語り継がれました・・・となりそうなところですが、アサは予見者ハナニに叱られ、悲惨な末路を辿ることになりました。
ハナニは「どうしてアラムとの同盟なんかに頼ったのですか!!そんなものより神様に頼るべきだったのに!」と怒ったのでした。というのも、アサは以前にエチオピアに攻められた時、神様に頼ったおかげで勝っていたからです。「同じようにすれば今回も勝てたでしょ!」というのがハナニの主張でした。
アサは怒ってハナニを投獄しました。そして同じような主張をする国民を虐待しました。そして神の怒りによって両足の病気にかかり、その時も神様よりも医者を頼ったのでそのまま死んでしまいました。
聖書は人間の常識や定石からは考えられないことを、往々にして僕たちに提示します。この時のアサを、僕たちは責められるでしょうか。国防上の危機にあって、正面対決ではなく外交努力によって全面的な戦闘を避けつつ国土を守ったこと、病気になって医療に頼ったこと、どちらも現代の僕たちにとっても共感できる「常識的・良識的」な判断です。ハナニが主張したような決断を、僕たちは果たして現代にできるでしょうか。
結果だけみればそうです。しかし聖書をよくみると、その過程においてアサは神様を完全に無視した態度をとっています。北からの攻撃の兆候が見えた時、アサは神に祈ることもせずに、いきなり宝物庫からアラムに送るための金銀を用意しています。いわば「真っ先に金で解決しようとした」のです。アラムの側も、その金銀によって同盟を承諾しました。つまりこの同盟は金による同盟であって、信頼や目的の一致による同盟ではなかったんです。ここでアサが宝物庫から金銀を取り出す前に、神様に祈っていたら過程も結果もまったく違うものになっていたかもしれません。
国同士の話だと、現代はこれまた非常にややこしい問題になっていますし、単純に「経済力による同盟はいかん!」と言えるものではありませんし、まして「安直な外交によって戦争を防ぐなんていかん!」なんて話ではもちろんありません。しかし個人レベルまで話を引き寄せれば、僕たちは、特にクリスチャンは、問題に直面したとき、財布や預金通帳と相談する前に、まずは神様と相談すべきです。そこで、自分だけでは思いつかなかった解決策が示されるかもしれません。現代の経済至上主義の社会に生きていると、つい僕たちは神様よりも前に財布や預金通帳と相談してしまいます。そんなとき、僕たちはスケールは小さくとも、アサと同じ轍を踏んでしまっています。
現代はたしかに、誰かにお金を払えば大抵の問題は解決するような社会かもしれません。でもそんな社会だからこそ、クリスチャンは「財布よりもまず祈り」ということを心がけなくてはいけません。そうでなければ神様よりもお金に頼る、立派な偶像礼拝が成立してしまいます。クリスチャンでない方でも、問題に直面したら「いつもと違う場所で考えてみる」とか「自然の中で心を整えてみる」とか、そんなことがもしかしたら役に立つかもしれません。少なくとも財布を出す前にやることはあるはずです。
財布は確かに頼りになります。財布を忘れて出かけたら心配ですし、何かあっても財布があれば大抵のことは大丈夫だったりします。しかし、だからこそ財布に頼る前にやるべきことを忘れてしまいがちです。財布よりもはるかに頼りになる存在が僕たちを愛してくださっているんです。
それではまた次回。
主にありて。
MAROでした。
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