主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
すみません、春ごろから少々養生が必要な状況になり仕事を減らしめにしていたので、こちらの連載もお休みをいただいておりました。
十分に養生してそろそろだいぶ良くなったので、ぼちぼち再開しようかと思います。
よろしくどうぞ。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は旧約聖書、エステル記の8章です。
エステル記 8章6節
どうして私は、自分の民族に降りかかるわざわいを見て我慢していられるでしょう。また、どうして、私の同族が滅びるのを見て我慢していられるでしょう。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
悪大臣ハマンが出した「ユダヤ人を滅ぼしてしまえ」という命令はエステルの機転によってひとまずは阻止されハマンも処刑されましたが、しかしその命令自体はまだ法的に有効でした。そこでエステルはクセルクセス王に「同族が滅びるのを黙って見ていられませんから、その命令を無効にする命令を出してください」と願いました。王はそれに応じてその命令を無効にしました。
「民族も国籍も超えて、人類みんな平等に仲良く」というのが理想なのはもちろんなのですが、しかし人間というのはどうしても自分の民族、自分の国を他の民族や国よりも優先して守ったり、利益を確保したりしたくなってしまうものです。現在の日本では「日本人ファースト」という言葉に代表されるような、「我々の国、我々の民族の安全と利益を優先すべきだ」という主張が広く聞こえるようになりました。10年前の日本ではなかなか主張しにくかったことです。ではどうして10年前には主張しにくかったことが、今、これだけ声高に主張されるのでしょう。それはおそらく(実際にどうかはここではあえて別にして)民族が危ない、という危機感を多くの人が覚えているからかと思います。
エステルが王にこの主張をしたときは、まさにユダヤ民族の危機でした。民族の存亡が危ぶまれる時、人はどうしても他の民族を差し置いても、自分の民族の安全と利益を優先するものです。他の民族との共生はとても大切なことだけれども、それはまず自分の民族の安全という前提が保障されてからのことだというのが、おそらくどの民族にとっても自然と湧き起こる命題なのでしょう。たとえ自分の民族が消滅しても他の民族との共生を優先すべきだという人は少なくとも少数派ではあるのかと思います。
アメリカやロシアが戦争をしています。これも彼らがこれまで以上に「国や民族の危機」を覚えているからなのかもしれません。
「日本人ファースト」を主張する人は、「排外主義者」「差別主義者」なのではなく、自分たちの存亡の危機を感じている人たちなのだと思えば、考えの異なる人から見ても少し違う視点が現れるかもしれません。反対に民族共生やグローバリズムを主張する人は、少なくともそういう人たちと比べれば「日本や日本民族はまだ大丈夫」と思っているのかもしれません。あるいは「他の民族の利益も確保しなくては自分たちも滅びてしまうぞ」という別方向の危機感を覚えているのかもしれません。
日本人の安全と利益がすでに十分に確保されているのなら、それ以上の利益を求めることは「欲張り」になるでしょう。しかしそれが確保されていないのなら、それを確保することは「当然の権利」になるでしょう。
この国の、この民族の、安全と利益が「心配しなくても大丈夫だよ」という状況になれば、自ずと「日本人ファースト」的な主張は弱くなってゆくでしょう。反対に言えば、その危機感を放置したまま「排外主義はよくない!」と彼らを攻撃しても議論は平行線をたどるだけかと思います。
危機感というのは強さも方向も、人それぞれ異なるものです。お互いの危機感に「あなたはそこにそれだけの危機感を覚えているのですね」と寄り添うところから、この種の対話は始めなくてはならないのかと思います。
ただ、非常に面倒なことに、どちらのサイドにも「危機感を煽ることで注目を集めて利益を得る」勢力も多く存在します。1の問題を10に見せ、さらに100の騒動を起こすことで利益を得る人たちもいます。そういった人たちに惑わされることなく、まっすぐに考えている人同士が向き合えば、対話は思うほど難しくないようにも思えます。
復帰初回からやや重たい話になってしまいましたが。
それではまた次回。
主にありて。
MAROでした。
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