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保育園で小児祝福式が行われた。例年、「祝福の徴(しるし)」に小さなウェーハウスを、一人ひとりに「神様からの祝福です」と言いながら手渡しする。しかし、昨年も、そして今年も「口にするものは手渡ししない(できない)」ので、一人ひとりの頭の上に手を置いて祝福するのみ。まして昨年はその行為すらできなかったことを思うと、特別に心を込めてあげようと祝福式に臨んだ。「特別に・・・」、そう、子どもたちは貴重な乳幼児の時を、「コロナ禍」によって様々な制約の中で過ごしてきたのだ。ある意味、一生に一度しか出来ない経験がたくさんある幼児時期に、多くの事を否応なく諦めさせられてきたのだから、「特別に」してあげたって良いと思うのも当然だろう。
今年の夏、一年延期されたオリンピック・パラリンピック(以下オリ・パラ)が開催された。選手たちは大会に向けて努力してきたのだから、「一生に一度の機会」を奪わないために、多額の費用をかけて感染対策を行った上での開催であった。しかし、それでも開催中のコロナ感染者が増加し続けたことは事実として残った。オリ・パラが原因だったと言うつもりは毛頭ない。ただ、「一生に一度」という言葉は、私個人としてはスッキリしない開催理由にしか思えなかった。その理由が、子どもたちに祝福しながらはっきりしてきた。そう、「一生に一度の時(機会)」を過ごしているのは子どもたちも同様であって、オリ・パラだけが、そしてそこに参加する選手だけの「特別な時」ではないということである。昨年春以降、コロナ禍の中で予防優先という状況から、子どもたちは様々な「一生に一度の機会」を諦めさせられてきた。「子どもたちに理不尽な諦めを強いてきたこの1年半だった」と、社会が強く認識する必要があり、サポートする体制を整えて挙げなければならないと思う。だからこそ今年の祝福式は、「よく我慢したね」という思いを込めて、一人ひとりを祝福してきた。ただし、子どもたちにその思いが伝わったかは、神様に委ねるしかないが・・・。
イエスが神の国の福音を宣べ伝え始めると、「ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った」(マタイ4:25)SNSなどない時代、イエスの事がたちどころに人々に伝わったのは、理不尽な諦めを強いられた日常に気付かされたからかもしれない。ともあれ一生に一度の「イエスとの出会い」を大切にしたいとやって来た人々が、諦めではなく希望を与えられた出来事こそが福音だったのである。
理不尽な諦めを強いないでも良いように、もうすこし感染予防を続けるしかない。