わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなリません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。(コリントの信徒への手紙I 9章16節)
初代教会において、使徒は宣教に専念するために教会から報酬を受ける権利があったようである。しかし、パウロはコリント教会でこの権利を用いなかった。彼がコリントを去った後、教会に彼の使徒職を批判する者たちが現れた。彼らはパウロがこの権利を用いないのは使徒でないのに使徒を名乗っているやましさのためだと言った。これに対して、パウロは使徒である根拠を示すとともに、使徒の権利を用いなかったのは、福音宣教を妨げないために選び取った自分の自由であると言う。
パウロはマケドニア諸教会からの支援は喜んで受けている。しかし、コリント教会には、彼が報酬を受けると、金銭欲から伝道しているように思う人々がいた。教会が霊的に未熟であったので、パウロは彼らのつまずきにならないために、報酬を受け取らないという態度を選び取った。それは、パウロの自由であった。彼はそれを「わたしの誇りである」とすら言い、また、誤解されないために、今日の型句を語った。
福音宣教はパウロにとって自由な選択ではなく、「そうせずにはいらない」務めであった。福音宣教は、福音の恵みにあずかったキリスト者に対する主イエスの命令である。しても、しなくてもよい務めではない。しかし、皆が同じような方法で伝道をするのではない。話をする人がいて、背後で祈る人がいる。賜物に応じて、各々の仕方で伝道する。その時、各々が教会を造り上げるために、人のつまずきにならないようにと自分の態度を選び取るのがキリスト者の自由である。