お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を聞いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか(ルカによる福音書15章32節)
兄は、放蕩(ほうとう)息子の弟を家に迎えて喜ぶ父の心が分からず、怒って家に入ろうとしなかった。ところが、主イエスが語った父の兄に対する態度は驚くばかりである。父は「私の喜びが分からないなら、勝手にどこへでも行け」とは言わない。兄が家に入ろうとしなかった時、父の方から外に出て、彼のところまで足を運び、彼を「なだめた」(28節)。「なだめる」とは、「招く」、「慰める」、「とりなす」という意味である。どの意味とっても、兄に対する父の愛情がよく表れている。怒っている兄に父が語った言葉が、今日の聖句である。
父は「この息子は死んでいた」と言う。弟が父の家を出て気ままに生きていた時、実は死んでいたと言うのである。彼は父の家に帰ることによって、生き返った。人は神の家に住み、神と結ばれて、真に生きる者となる。
父は、弟にもそうであったように、兄にも愛を込めて家に入るように招いた。息子たちに対して、父の愛は広く、優しく、魅力的である。この父は、御子(みこ)を世に遣わし、御子を通して語り、大いなる愛を現された私たちの主なる神である。この父のように、神は力ずくで私たちを家に連れ戻すことはしない。ただ大いなる愛を示して、私たちを神の国に招かれる。
兄は真面目な人間であった。しかし、父の心が分からなかった。弟を失った悲しみも、弟を迎える喜びも分からなかった。失われた人たちに対する神の痛みと愛を知らないなら、私たちも兄と同じように父から遠く離れている失われた者である。