【教会では聞けない?ぶっちゃけQ&A】 自ら信じた実感がない 上林順一郎

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Q.親に連れられて教会へ行っていたために、自ら信じたという実感がありません。自分の意志で教会に通い始めた人がうらやましく思えるのですが……。(20代・男性)

「何か質問はありますか」と神父さん。「もうなくなってしまったみたいですね。おかしいな、もっとあったはずだがなあ」とわたし。「そうですか、もうないですか。それではラーメン食いに行きましょう」と神父さん。

カトリック作家の加賀乙彦さんが洗礼を受ける決心をした時のことを書いている文章です。わたしは気負いのないこの会話がとても好きです。

あなたは小さいころから両親に連れられて教会に行き、自然な形で洗礼を受けるようになったのでしょう。だから「自ら信じたという実感がありません」とおっしゃるのは正直な気持ちかもしれません。わたしも中学時代に姉に連れられて教会に行き始め、一年後に深く考えないまま洗礼を受けました。ですから、いまでも苦しい体験や困難を経て信仰を持った人の証しや劇的な改心を経験した人の話を聞くと、自分の信仰と比較して劣等感に陥ってしまいます。

たしかに、キリスト教の信仰は「信じる」ことへの決断を求めます。ですから「自ら信じたという実感」は大切ですし、「改心の経験」も大事でしょう。でも、「実感のない信仰」「改心のない信仰」さえも神は受け入れ、支えてくださっているとわたしは信じているのです。

「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた」(イザヤ46・3)。あなたは両親に連れられて教会に行ったのは事実でしょうが、実は神ご自身があなたを教会へと背負い、そして信仰へと導かれたのではないでしょうか。たとえ、信仰の実感や劇的な改心がなかったとしてもです。

あるカトリックの神父さんが次のように話していました。回心とはたんに改心(心を改める)ことではなく、これまでとは正反対の生き方をすることです。回心をラテン語ではメタノイアと言います。メタノイアを反対に読めば、アイノタメとなります。回心とは愛のために生きることです。

この回心なら、いまからでも少しはできるような気がします。

かんばやし・じゅんいちろう 1940年、大阪生まれ。同志社大学神学部卒業。日本基督教団早稲田教会、浪花教会、吾妻教会、松山教会、江古田教会の牧師を歴任。著書に『なろうとして、なれない時』(現代社会思想社)、『引き算で生きてみませんか』(YMCA出版)、『人生いつも迷い道』(コイノニア社)、『なみだ流したその後で』(キリスト新聞社)、共著に『心に残るE話』(日本キリスト教団出版局)、『教会では聞けない「21世紀」信仰問答』(キリスト新聞社)など。

【既刊】『教会では聞けない「21世紀」信仰問答I -まずは基礎編』 上林順一郎監修

 






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