主の御名をあがめます。
皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は コリント人への手紙第二の1章です。それではよろしくどうぞ。
◆コリント人への手紙第二 1章4節
神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
誰かに「お金をください」と頼まれても、自分にお金がなければあげることはできません。その人にどうしてもお金をあげたければ、自分がどこかからお金を得て、そのお金をあげることになります。慰めも、これと似たようなものなのかもしれません。聖書のこの箇所によれば、僕たちは神様から慰められることによって、周りの人を慰めることができます。
もし、あげるお金があったとしても、たくさんの人から「僕にも」「私にも」と言われたら、お金はどんどんなくなってしまいます。たくさんの人にお金をあげるためにはお金の泉源が必要です。慰めも似たようなものです。自分が慰められることなく、人を慰めてばかりいたら、きっと自分の心がすりへって弱ってしまいます。たくさんの人を慰めるためには、慰めの泉源が必要です。その慰めの泉源として、神様より良いものはありません。神様は無限の泉源だからです。人同士で慰め合っていても、それは限られた心の資源を行ったり来たりさせているだけに過ぎません。
ダムや湖は人々に水を供給しますが、自分もまた雨や川から水の供給を受けなければ干上がってしまいます。
たくさんの人にお金をあげたい!と思うなら、まず自分がお金を得なくてはなりません。同じようにたくさんの人を慰めたい!と思うなら、まず自分が慰められなくてはなりません。慰められた経験のない人が、誰かを慰めることはできないからです。
人が落ち込んでいたら慰めようと思うけど、自分は慰められたくない!という人がいます。「います」というか、僕自身が実は割とそうです。人に慰められるのは恥ずかしいようでもあり、弱みをさらすようでもあり、正直なところ少し抵抗があったりするんです。もちろん相手にもよりますけれど。しかし、神様に慰められるなら話は別です。もう僕は今さら神様に対して恥ずかしいことも弱みを隠す必要はまったくないからです。だってすでに神様に、恥ずかしいことも弱みも、全部知られてしまっているのですから。
神様に恥ずかしいことも、弱みもすべて吐き出して慰めを受けることが、大切な誰かを慰めるために必要なことなんです。「自分は強いんだぞ」というプライドを捨てることなしに、誰かを本当に慰めることは難しいんです。「優しくあるためには強くあれ」なんてよく言われますが、この意味では「優しくあるためには弱くあれ」なんです。
慰めを必要として、慰めを受けている人こそ、本当に人を慰めることができるんです。
それではまた明日。
主にありて。
MAROでした。
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