連休明けで今日から仕事!という方、長期休暇の真っ最中!という方、お盆こそ仕事の正念場!という方、様々なシチュエーションの方々が入り混じる今日この頃かと存じますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。今日も日刊キリスト新聞クリスチャンプレスをご覧いただきありがとうございます。
毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章から心に浮かんだ事柄を、皆様の役に立つ立たないは気にせずに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 新約聖書、ルカの福音書の9章です。それではよろしくどうぞ。
◆ルカの福音書 9章46〜48節
さて、弟子たちの間で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。
・・・あなたがた皆の中で一番小さい者が、一番偉いのです。
イエス様の弟子たちは互いに「俺こそがイエス様の一番弟子だ!」「いやいや、私こそイエス様の片腕だ!」「なにを!イエス様を一番支えてるのは僕だぞ!」・・・と、内容は定かではありませんが、とにかく「誰が一番えらいのか」について論争を始めたようです。イエス様はそんな弟子たちをみて「そういうふうに偉さを誇示するのではなく、一番小さい人が一番偉いのだよ」と教えました。
人はどうしても、何かを成し遂げたり、仕事で良い成果をあげたりすると、それを他の人にアピールしたくなりますし、それをもって「自分はえらい!」とか、さらには「自分はあいつより上だ!」とか思ってしまいます。しかしイエス様は、何かを成し遂げた時にこそ、自分を小さくできる人こそが一番えらいのだ、と言います。自分の功績を見せびらかすのではなく、まるで何事もなかったかのように振る舞う、そんな人が一番えらいのだと。別の角度で言えば、大きな仕事ではなく、小さな仕事に忠実な人こそえらいのだと。小さくて目立たない仕事を与えられた時に「こんな仕事は俺にはふさわしくない。どうしてこの俺がこんなことをやらなきゃいけないのだ!」とか思ってしまう人はまったくえらくないのだと。
これって、現代社会とは正反対ですよね。小さな仕事よりも大きな仕事をやれ!仕事を成し遂げたらしっかり周りにアピールしろ!・・・と、そんな競争に満ち溢れているのが現代社会です。しかしイエス様は言うのです。そんな競争には乗るなと。人間にとって、目に見える「えらさ」なんかよりも、ただ子どものように神様を受け入れられるかどうかのほうがよっぽど大切なのだと。
神様を本当に受け入れたのなら、自分が何を成し遂げたとしても、神様の御業の前に自分の成果なんてどれほど小さいかを実感するのみなので、そもそも「自分はえらい!」とか「えらく思われたい!」なんて気持ちは起きなくなると思うのです。
・・・とか言いつつ、僕はまだまだついつい心のどこかで「自分、えらい!!」と思ってしまうところがあるので、まだまだこれからも引き続き、イエス様の熱い指導を受けなければいけないんだと思います。
それではまた。
主にありて。MAROでした。