自分の「平和」や「正義」をメンテナンスする【聖書からよもやま話18】


8月になりました。一年で最も暑い月が始まりましたが皆様いかがお過ごしでしょうか。今日も日刊キリスト新聞クリスチャンプレスをご覧いただきありがとうございます。

毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章から心に浮かんだ事柄を、皆様の役に立つ立たないは気にせずに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、エレミヤ書の9章です。それではよろしくどうぞ。


◆エレミヤ書 9章8節

彼らの舌はとがった矢。人を欺くことを言う。口先では友に向かって平和を語るが、心の中では待ち伏せを企む。


表づらだけ綺麗なことを言って、内面では何を考えているか分からない人っていますよね。たとえば生徒には「みんななかよく」と言いながら、裏では他の先生の悪口を言っている先生とか。「平和を実現しましょう」と言いながら、意見の合わない相手に対しては敬意もなしに非難を浴びせまくる政治家とか。中には「キリスト教は排他的でよくない宗教だから寛容な世を作るためにキリスト教を排除しよう」なんて、「・・・矛盾に自分できづきませんか?」と問いたくなる方さえいたりもします。

Image by mohamed matar from Pixabay


どれも困ったものですが、よく自分の胸に手をあててみれば、誰しも自分にも少しは同じような性質があることに気づくかもしれません。聖書に描かれているこのような「困った人」は、私たち自身の姿でもあるんです。この例に限らず、聖書に記されている罪をみて「そんな悪い奴はダメだ!」と、他人事のように評価してしまうなら、それは少しもったいない聖書の読み方かもしれません。聖書に記されている罪を自分の問題としてとらえるとき、聖書のメッセージはより深く、心に刺さってきます。

特に現代社会では「平和」とか「正義」とか「寛容」という言葉は、裏に隠れた企みの隠れ蓑にされやすくなっています。もちろん、この言葉自体、この概念自体は人間が欠いてはならない価値のあるものです。しかし、そんな価値のある言葉だからこそ、それを隠れ蓑に別の企みをする人もいるんです。悪魔が利用するのは人の悪意よりも、人の善意なのかもしれません。その人は本当に自分では「平和」を語っているのかもしれません。しかし悪魔は人の善意を逆手にとって世に分断をもたらすのが得意技です。

自分の「平和」「正義」「寛容」が、悪魔に用いられていないか、日々チェックとメンテナンスを欠かしてはいけないな、と思わされました。

それではまた。
主にありて。MAROでした。


 

横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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