「苦しい時の神頼み」こそ全力でやるべき【聖書からよもやま話19】


皆様いかがお過ごしでしょうか。オリンピックよりも新日本プロレス後楽園ホール3連戦で盛り上がっているMAROです。
今日も日刊キリスト新聞クリスチャンプレスをご覧いただきありがとうございます。

毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章から心に浮かんだ事柄を、皆様の役に立つ立たないは気にせずに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、列王記第二の13章です。それではよろしくどうぞ。


◆列王記第二 13章18~19節

それからエリシャは、「矢を取りなさい」と言ったので、イスラエルの王は取った。そしてエリシャは王に「それで地面を打ちなさい」と言った。すると彼は三回打ったがそれでやめた。神の人は彼に激怒して言った。「あなたは五回も六回も打つべきだった。そうすれば、あなたはアラムを討って、絶ち滅ぼすことになっただろう。しかし、今は三回だけアラムを討つことになる。


ここに出てくるのはヨアシュという王様で、普段は神様をないがしろにして、他の神様を拝んだりする人でした。神様はそんなヨアシュをみて「こいつ、よくない!」と思い、国を弱体化させ、彼を隣国アラムからの侵略に悩むようにしました。

しかし、そんなヨアシュも時々は神様に頼ることもあったようで、このシーンでは預言者(神様からのメッセージを預かる人)エリシャに泣きつきました。まさに「苦しい時の神頼み」をしたわけです。そしてエリシャの言いつけ通り、窓から矢を地面に向けて放ったのですが、3回やったところで「そろそろこんなもんでいいだろう」とやめてしまいました。これにエリシャは「何で3回でやめたのですか!それではアラムに勝てるのは3回だけで、アラムの侵略が止まることはありませんよ!」と怒りました。

Image by StockSnap from Pixabay


神様を信じていない人でも「苦しい時の神頼み」はしたりします。しかし、そういう人の神頼みは大抵どこかで「こんなもんでいいだろう」と真剣さに欠けています。神様に推奨されたことをちゃんとやらないことが多いんです。ヨアシュも矢を3回打つまではちゃんとやったのですが、そこで「こんなもんでいいだろう」とやめてしまいました。それでせっかく神様が与えてくれようとしていた恵みを完全に受け取ることができませんでした。

なんで地面に矢を打つ、なんていう非合理的なことを5回も6回もやらなきゃいけないのだ、3回やっただけだって、いや1回だって十分じゃないか、と、人間は思うかもしれません。しかし神様が人間に求めているのはいわば合理性よりも「素直さ」です。一見、非合理的に思えることでも「神様の言いつけならちゃんとやります」と愚直に従う心です。

ヨアシュはたまにしかしない「苦しい時の神頼み」にさえ、手を抜いたんです。むしろ「苦しい時の神頼み」だからこそ、手を抜いたのかもしれません。もちろん本来は「苦しい時」だけでなく、常日頃から神様に頼るべきなのですが、たまにしか祈らないのなら、せめてその時だけでも全力を注ぐべきであったのに、ヨアシュはそれさえもしませんでした。「苦しい時の神頼み」こそ、普段神様とコミュニケーションが少ない分、全力でやらなきゃいけないのです。

もしそこで全力でやっていたなら、ヨアシュは神様の奇跡をみて改心し、普段から祈るようになって、この列王記にも「よい王様」として記されるようになったかもしれません。しかし手を抜いたので残念な王様として後世に残ることになってしまいました。

しかし僕たちクリスチャンも手放しにヨアシュを笑えません。僕たちは神様に何かを求める時、ちゃんと全力を注いでいるでしょうか。どこかで「こんなもんでいいだろう」と手を抜いてはいないでしょうか。祈る以上は全力で祈り、頼る以上は全力で頼る。それが大切なのかなと思います。

それではまた。
主にありて。MAROでした。


 

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