「傍目八目(おかめはちもく)」という言葉があります。囲碁をしている本人たちよりも、ハタで見ている第三者のほうが先手(八目も先!)を読んでいるという意味で、転じて、当事者でないほうが客観的に物事を見ることができるという意味で使われる言葉です。クリスチャンでない人は、キリスト教をハタから、客観的に見ることができるため、かえってクリスチャンよりキリスト教への理解が深い可能性があるのではないか。これは宗教に限らず、企業や学校の評判などにも言えることではないかと思います。第三者のほうが客観的な判断がくだせるという事例はたくさんありそうです。
茂木大輔さんというオーボエ奏者で指揮者のかたが、あるときテレビ番組でバッハの「マタイ受難曲」について解説していました。おそらく茂木さんはクリスチャンではありません。「マタイ受難曲」は、新約聖書の「マタイによる福音書」の受難物語に音楽をつけた曲です。茂木さんは、「ペトロの否認」(ペトロがイエスを3回知らないと言った話)について、深い共感をもって熱を込めて語っておられました。それは並みのクリスチャン以上の深い共感でした。これも茂木さんがクリスチャンでないからこそ語れた内容ではないかと思われました。
「食べログ」などでもそうですね。フランス料理など作れない人が、フランス料理のレビューを書いています。おそらくとんちんかんな感想もあることでしょう。しかし、フランス料理が専門の人からは決して出ない発想からのレビューもあるだろうと思います。あるいは、Amazonでの「聖書」のレビューのかなりの割合を占めているのが、クリスチャンでない人によるものであることも留意すべき点かもしれません。
ブログにも、クリスチャンがキリスト教について書いた記事があります。しかし、残念ながらその多くは「ひとりよがり」であり、「クリスチャン同士でしか通じない話」であり、あるいは非信者(ノンクリスチャン)向けに書いた話でも「どうです? キリスト教ってなかなかわかりやすいでしょ?」という無自覚的に上から目線のものを感じたりします。これは「キリスト教内部の人間である」限界だろうと思います。
かくいう私も内部の人間です。でも、私は聖書を何度も読むうちに、そこに書かれている内容は決してキリスト教という宗教に特化したものではなく、人間に共通する普遍的な何かであると感じるようになりました。私は8割のフォロワーのかたがクリスチャンではない状況で、キリスト教の話も書き続けたいと思います。これは広い意味では「布教」ですが、せまい意味では「布教」ではありません。宗教って広い意味で取れば「人生そのもの」ではないかと考えられるからです。私は「キリスト教に興味がある」というよりも、「人生そのものに興味のある」人間なのです。
腹ぺこ 発達障害の当事者。偶然に偶然が重なってプロテスタント教会で洗礼を受ける。東京大学大学院博士課程単位取得退学。クラシック音楽オタク。好きな言葉は「見ないで信じる者は幸いである」。
選べない「ガチャ」だからこそ得られるもの 【発達障害クリスチャンのつぶやき】