「前を歩かないでくれ、わたしはついて行けないかもしれないから。後ろを歩かないでくれ、わたしはあなたをリードできないから。わたしの横を歩いてくれ、そしてわたしのともだちになってくれないか」
チャプレンのトレーニングを受けているときに、胸に刻んだ格言である。病める者、死に向かう人々の部屋に入るとき、わたしたちは人生を教えるのでも、天国の素晴らしさを説明するのでもない。
恩師は言った。「病で苦しむ人に対して、『I understand you(その苦しみ、よく分かります)』と決して言ってはならない。その人の苦しみはその人のものであり、他者であるわたしたちは想像することはできても、理解することはできない。その苦しみはその人のものなのだから」
「今は医学が発達してきているし……」「わたしの母もがんを患ったけど、寛解できましたよ……」
人は教えたがる。少し高いところから教えたがる。わたしは病室に入り、聖書を読み聞かせない。「神さまはわたしたちに耐えられない試練を与えません」とか、「すべてのことに意味がある。神さまはすべてのことを益としてくださいます」という一節を読むことはしない。
求められたときにのみ、相手の希望する聖書の箇所を噛みしめながら読む。わたしは回復も、癒やしも祈らない。祈りを求められたときにのみ、相手が何を願っているかを聴き、そのことを必死に神に語りかける。
人は人を支えたがる。助けたがる。後ろを歩き、その人の背中を押し、重荷を支え、苦しむ人を助けたくなる。後方からさりげなく、助けの手を差し伸べる。その人の肩にのしかかる苦しみが減り、倒れそうだったその足取りを支えることができればこちらも嬉しくなる。
だがそこには自己満足がどうしてもつきまとう。そしてそこには、助けられる苦しみがあることも忘れてはならない。助けがどうしても必要なときはある。だが助けられ続ける側の自尊心を奪ってしまうこともある。だから横を歩くのだ。一歩前でも、半歩後ろでもない。一緒に歩くのだ。
イエスは、自分を裏切り、故郷であったかもしれないエマオという村へ帰ろうとする弟子たちと、一緒に歩いた。イエスの弟子であること、またその使命もすべて捨て去り、真逆に歩き出していた弟子たちとさえも共に歩いたのだ。
真逆に行くときは真逆に一緒に行き、迷うときは一緒に迷う。正さず、教えず、一緒に歩く。ほんの少しでも同じ歩幅で歩くのだ。
今日もわたしは死を前にした人、その家族の横にいた。突然の脳出血。「あと数時間も持たないかもしれない」と宣告され、母の横で涙する家族と一緒にいた。教えることなどあるはずがない、助けられず、支えることもできない。
ただ何もせず、何もできず、そこに居続けること、これ以上に難しいことではない。だからこそ恩師から教えられたことばを思い出すのだ。前を歩かない、後ろも歩かない。ただただ一緒に歩くのだ。何もできないまま、何も変えられないまま、どこに向かうかも分からないままで、それでも一緒に歩くのだ。
家族が最後に語った「チャプレン、母のために祈って、母がもう苦しまず、天国に行けるように祈ってください」。わたしは家族と輪をつくり、 亡くなっていくその人を囲み、その願いを、必死に神に差し出した。そして、 ただその横に立ち続けた。何もできないまま、何も変えられないまま、それでもただただ共に歩くのだ。
(cover photo: Hidemi Ogata)
*個人情報保護のため病院の規則に従いエピソードはすべて再構成されています。
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