選べない「ガチャ」だからこそ得られるもの 【発達障害クリスチャンのつぶやき】

 「親ガチャ」、あるいは「配偶者ガチャ」「会社ガチャ」「上司ガチャ」「学校ガチャ」「先生ガチャ」「病院ガチャ」「医者ガチャ」と――限りなくあります。しかし、もっとも大きな「ガチャ」はおそらく「自分ガチャ」ではないでしょうか。自分で自分は選べませんから。

 私はかつて教員でした。ダメ教員でした。どれほど「できる教員」に憧れたかわかりません。鮮やかにわかりやすい授業をして、ちゃんと生徒の顔と名前が一致していて次々に生徒を指し、ヒーローみたいな「先生」です。でも、それは妄想でしかありませんでした。それから地味にダメージが大きいものとして「自分の顔ガチャ」もありますよね。もっとイケメンだったらよかったのになあ、オレって変な顔しているなあ、と思ったりしませんか。そんなわけで、私はそういう「できる教員」タイプではありませんでした。自分で自分は変えられません。やがて発達障害の診断がくだり、私は教員をやめさせられました。

 でも、その代わり、だんだん自分の「良さ」にも気づいてきました。私は正直者だ。私はなかなか親切だ。ときどき突拍子もない能力があったりする。それは決して「できる教員」の像ではありませんが、私には私の良さがあるのです。13年くらい前の日記を見ると、そこには、自分を変えようとして無駄な努力をする涙ぐましい自分の姿が描かれています。今の私は当時に比べてずっと経済的にも社会的にも不安定ですが、その代わり、「自分の良さに気がついている」という何とも言えない安心感のなかを生きています。今のほうが当時よりずっと幸せだと思えます。

 私はフルートのレッスンで、もっぱら先生から与えられる曲を習ってきました。自分から「これがやりたいです」というのはほとんどありませんでした。ですから、「やる曲ガチャ」だったのですが、これはおもしろい現象がありました。いいとは思えない曲に当たってしまって、それを何カ月も練習するハメになるのですが、逆に「自分からでは絶対に知り得なかった、とてもいい曲」に出会える場合があるのです。そうして、誰も知らないような宝物のような名曲に出会うことが何度もありました。ガチャガチャでいいこともあるのです。

 そもそも「楽器ガチャ」というのがあります。私は中学で吹奏楽部に入り、あてがわれた楽器がたまたまフルートでした。多くの人はそうして楽器と出会います。私はキャラとしてはフルートは合っていなかった気がします。フルートの世界って、「メロディ大好き!」のフルートバカが出世する世界だったのです。戦略的には、私はもっとピアノなどを極めていたほうがずっとよかったでしょう。しかし、こんなにフルートと長い付き合いになってしまうと、もうこれがよかったのか悪かったのかわからず、「楽器ガチャ」は受け入れるしかなくなります。私はフルートでよかったのだ。

 じつは私、「教会ガチャ」は最初から大当たりだったのです。よく、来始めて間もないかたに「どうしてプロテスタントを選んだのですか?」とか聞かれるのですが、いや偶然に次ぐ偶然ですから、自分では選んでいないのですよね……。もし自分から宗教に行ったなら、仏門を叩いていると思いますよ。

 これに比べるとインターネットというものは、自分の好きなものしか出てきません。noteを見ていても、自分の興味のある話題しか出ないものです。これは一見、幸せそうでいて、じつは不幸かもしれませんね。思いもよらないものに出会えないからです。意見の違う人とも話さない。いや、ちょっとでもケンカになるとブロックしてしまう。インターネットは「ガチャ」の正反対で、好きなものしか出てこない反面、人と人を分け隔てる見えない壁かもしれないですね。

腹ぺこ 発達障害の当事者。偶然に偶然が重なってプロテスタント教会で洗礼を受ける。東京大学大学院博士課程単位取得退学。クラシック音楽オタク。好きな言葉は「見ないで信じる者は幸いである」。

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