嫌いな賛美歌ありますか? 【発達障害クリスチャンのつぶやき】

 学生時代、友人宅の家庭集会で、「好きな賛美歌」大会に続いて、「嫌いな賛美歌」大会が行われたことがありました。聞いてみると、みなさん、いろいろ嫌いな賛美歌がおありのようです。ここでは、私の嫌いな賛美歌(あくまで個人の感想)を挙げます。( )内は特に指定のない場合、『讃美歌21』の番号です。

「主よ、み手もて」(504)
 「いかに暗く けわしくとも、みむねならば われいとわじ」
 ここへ差し掛かると、私の声は小さくならざるを得ません。ものすごく暗くてけわしかったら、みむねであっても、私はいとうかもしれないと思うからです。ただ単に、私の信仰がうすいだけです(笑)。

 しかし、一方で思うのは、こういうことを言う人に限って、いざというとき、3回イエスを知らないと言って逃げるというのが、聖書の描く人間の姿ではないかということです。

「やすかれ、わがこころよ」(532)
 「いたみも苦しみをも しずかに忍び耐えよ。主イエスのともにませば 耐ええぬ悩みはなし」
 この後半へ差し掛かると、やはり私の声は小さくならざるを得ません。主イエスがともにいましても、耐えられない悩みはあるかもしれないと思ってしまうからです。これも、単に私の信仰がうすいだけですね。

 「恐るべきものは この世になし」(458)みたいな歌詞もね、なんか、この世は恐るべきものばかりじゃないかと、つい思っちゃうものですから。恐ろしい歌詞です。

「気づかせてください、知らずに犯した罪を」(444)
 歌うたびに思うんですが、われわれは知らずに犯した罪を気づかないだけの鈍さがあるから、生きていけているのではないか。もし、知らずに犯した罪をすべて知らされたら、とてもではないけど生きていけないのではないかと、そのように感じます。

「となりびとは だれでしょう、みんなともに さがそうよ。弱く貧しい お友だち、病んで苦しむ ひとたちも、みんな同じ となりびと」(421)
 ものすごく気になる賛美歌です。まず、「弱く貧しい」のは、私ではないのか。「病んで苦しむ」のは、まず私ではないのか。なんで、弱く貧しいとか、病んで苦しむ人というのが、わがことではないのか。なぜ、「となりびと」なのか。なぜ自分ではないのか。
 これは、自分は、弱くも貧しくもなく、病んでもおらず苦しんでもいない人が歌う歌だ、と思ってしまうのですが、いかがでしょうか。私は強烈にそれをこの歌から感じます。だれだって、自分が弱くなったり貧しくなったり、病んだり苦しんだりするはずです。そのことを忘れて、「となりびと」と言ってはいけません。これは偽善の歌です。
 もうひとつ言わせてもらえば、はじめて教会に来た人も、この歌を歌わせられるのでしょう?ある人が「洗礼を受ければこっちのもんだ」と、つい本音をもらしていましたが、そういう姿勢じゃダメだと思います。

 最後に、好きな賛美歌も挙げて、この文章をしめくくろうと思います。これは『讃美歌21』に載っていない賛美歌ですが、『54年版 讃美歌』の398番「わがなみだ」。3節に以下のような歌詞が出てきます。

「みめぐみと 知りてはあれど、このなやみ 今は耐ええず」
 なんと正直な賛美歌でしょう! み恵みだとわかっていても、この悩みは今は耐えられないのです。こういう賛美歌が忘れられていくのは残念です。私もこの歌は「賛美歌通読」で知った歌です。作曲は「椰子の実」と同じ大中寅二で、メロディも「椰子の実」に似ています。そして、歌詞ともどもなんとも心もとない感じのする賛美歌です。いいですねえ。

腹ぺこ 発達障害の当事者。偶然に偶然が重なってプロテスタント教会で洗礼を受ける。東京大学大学院博士課程単位取得退学。クラシック音楽オタク。好きな言葉は「見ないで信じる者は幸いである」。

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