主の御名をあがめます。
皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、詩篇の1篇です。よろしくどうぞ。
詩篇 1篇1節
幸いなことよ
悪しき者のはかりごとに歩まず
罪人の道に立たず
嘲る者の座に着かない人。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
「正直者はバカをみる」「悪い奴ほどよく眠る」・・・世には悪人こそが得をするのだ、正しく生きても損するだけだ、のような言葉がたくさんあります。しかし聖書は言います。「悪いことをしない、悪い道に入らないことは、それだけで、それ自体が幸せなことなのだ」と。
「正しく生きていれば何か見返りがもらえるのだから、正しく生きるべきである」とか「悪いことをすれば何か悪い見返りを受けるのだから、正しく生きるべきである」とか、「○○だから○○すべき」という条件付きの倫理観のことを、哲学者エマニュエル・カントは「仮言命法」と呼びました。一方で、そういった条件なしに単に「正しく生きるべきである」という倫理観のことを彼は「定言命法」と呼び、こちらをこそ、人間は規範として生きるべきなのだと説きました。
クリスマスが近づいてきましたが、この時期には子どもに「いい子にしていたらサンタさんがプレゼントをくれるよ」とか「悪い子だとサンタさんが来てくれないよ」とか、そういうことを言うことがよくあると思います。しかしこれはカントさんによればあくまで「仮言命法」であるので、真に人間が従うべき倫理ではないということになります。サンタさんがプレゼントをくれるもくれないも関係なく、「いい子にしていなさい」というのが「定言命法」です。「仮言命法」の倫理は「僕はサンタのプレゼントなんか要らない」と言われたらその効力が失われてしまいますが、「定言命法」はどうあってもその効力を失うことはありません。
この詩を見ても「罪人の道に立たない人は◯◯だから幸せなのである」とは書いてありません。単に「罪人の道に立たない人は幸せなのである」と書いてあります。人はつい「罪人の道に立たない人は人から恨まれないから幸せ」とか「法律で裁かれる心配がないから幸せ」とか「信用を得ることができるから幸せ」とか、「罪人の道に立たない」ことの理由を求めてしまいますが、そんなものは実は要らないんです。その理由を持ってしまうと、その理由が破られたとき、つまり「悪いことをしていないのに恨まれた」とか、そういうことが起こったときに、心が折れ、行動の理由を失い、自暴自棄になって「だったら罪人の道に立ってやる!」ということになってしまうんです。
『スターウォーズ』のアナキン・スカイウォーカーが、ダース・ベイダーになってしまった理由は、彼が一つ一つの「善」に「理由」をつけてしまっていたからなのではないかと思います。その「理由」が破られたとき、彼はダークサイドに堕ちざるを得なかったのではないかと。「理由のある行動」は、その「理由」が崩れた時、あまりに脆いのです。
詩篇の1章1節に、この明らかな「定言命法」が記されていることは、大きな意味があるのかと思います。人間はとかく、「仮言命法」で生きがちなものです。何をするにしても見返りを求めてしまうものです。「愛されたいなら愛しなさい」とか「与えられたいなら与えなさい」とか、見返りを前提とした倫理観に従ってしまいがちなものです。しかし聖書が言うことは単に「愛しなさい」であり「与えなさい」なんです。それによって愛されなくても、与えられなくても関係なく「愛しなさい」「与えなさい」なんです。なぜなら、それ自体が他のどんな見返りよりも、人を幸せにすることだからです。そしてそこに「理由」を求めなければ、その「愛」が壊れることはありません。イエス様は理由なしに僕たちを愛してくれます。「理由がないのにどうして?」と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、それはむしろ「理由がないからこそ」なんです。理由がないからこそ、永遠に愛し続けることができるんです。もしイエス様の愛に「君が○○だから」なんて理由があったとしたら、僕たちはもはや誰一人としてその愛を受け続けることはできないでしょう。
それではまた明日。
主にありて。
MAROでした。
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