生きてるだけで神様からのメッセージ【聖書からよもやま話17】

皆様いかがお過ごしでしょうか。今日も日刊キリスト新聞クリスチャンプレスをご覧いただきありがとうございます。

毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章から心に浮かんだ事柄を、皆様の役に立つ立たないは気にせずに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は新約聖書、コリント人への手紙第二の3章です。それではよろしくどうぞ。

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◆コリント人への手紙第二 3章3節

あなたがたが、私たちの奉仕の結果としてのキリストの手紙であることは、明らかです。それは、墨によってではなく生ける神の御霊によって、石の板にではなく人の心の板に書き記されたものです。


手紙は人から人へとメッセージを伝えるために書くものですが、それは必ずしも紙に書かないといけないものではありません。子どものころ、「ハガキの葉っぱ」という葉っぱに文字を書いて遊んだことを思い出します。これは多羅葉(たらよう)というモチノキ科の植物で傷をつけると黒い線が浮かび上がるので、昔はこれにお経を書き記したりしたのだそうで、そもそも「ハガキ」という言葉自体、「葉書」ですから、もともとはこの葉っぱを示していたんですね。

で、聖書は人間自体も神様からのメッセージであるのだと、今日の箇所で宣言しています。神様が私たち人間に、メッセージを書き記してこの世に送り出すのであると。なんだかそう考えると、身の引き締まる思いがします。思えば人間は、言葉に表さなくても、表情や態度や動きや、言葉にならない様々なチャネルに、様々なメッセージを含む存在です。こうして言葉を書いているときはもちろんですが、そうでない時も自分の表情、態度、行いが常に神様のメッセージを担っていることを忘れないようにせねばと思いました。

でもだからと言って肩肘張って、「神様のメッセージを伝えねば!」なんて頑張る必要はありません。だってこのメッセージは読み替えれば、「君は生きているだけで私からのメッセージなのだ」ということですから。まず、日々を生きること、できれば楽しく生きること、幸せに生きること。これが大切なのかと思います。

・・・というわけで、今日もできるだけのんびりと暮らそうと思います。心と体が世間のことに埋め尽くされてしまったら、神様のメッセージを乗せる余裕がなくなってしまいますからね。


それではまた。
主にありて。MAROでした。


横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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