昔の罪をほじくってもしかたない?大切なのはそれを悔いること。【聖書からよもやま話13】

石を投げるか投げないか

昔の罪をほじくってもしかたない?大切なのはそれを悔いること。【聖書からよもやま話13】

連休は終わり、オリンピックは始まり、新日本プロレス7.25東京ドームは終わった今日、皆様いかがお過ごしでしょうか。そんな今日も日刊キリスト新聞クリスチャンプレスをご覧いただきありがとうございます。

毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章から、皆様の役に立つこととか立たないこととかを話してみようという【聖書からよもやま話】、
今日、選ばれたのは旧約聖書、詩篇第7篇です。それではよろしくどうぞ。

◆詩篇 第7篇4〜5節

もしも私が親しい友に悪い仕打ちをしたのなら
また私に敵対する者からゆえなくうばったのなら
・・・私の栄光をちりの中に埋もれさせてください。


この箇所はダビデ王の祈りですが、ダビデはここで神様に自分を守ってくださるようにお願いするとともに、このように、もし自分の過去に悪事があったなら、それを罰してくださいとも祈っています。

これを読んで僕は今回のオリンピック開幕式直前で、過去の不祥事によって降板することになってしまった人たちのことを思い起こしました。友に悪い仕打ちをした結果、本当に栄光をちりの中に埋もれさせることになったしまったなと。

しかしそれを「当然の報いだ。ざまーみろ」とは思えません。僕自身も過去を調べられれば、一つや二つ、いえもしかしたら十も二十も、不祥事と呼ばれることがあったかもしれません。僕だけじゃなく、ある程度の年月を生きてきた人であれば、過去を調べられて、悪いことが一つもないという人は、果たしているのでしょうか。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい(ヨハネ8:7)」とイエス様は言いました。少なくとも僕には石は投げられません。

しかしだからと言って、彼らが犯してしまった罪を「人間だから罪を犯すのもしかたない」と済ませるわけではありません。大切なことは、その犯してしまった罪を自覚し、悔い改めることだと思います。人はどうしても罪を犯してしまう存在です。しかしそこで霊的な生死を分けるのは、その罪を神様の前に告白し、悔いるかどうかです。今回のオリンピックの件で致命的だったのは、罪を犯してしまっていたことももちろんなのですが、それよりもそのことを雑誌の取材で武勇伝のように語ってしまっていたことだと思います。そこに悔い改めは残念ながらありませんでしたから。

そして、自分の自覚していない罪に関しても、ダビデのように「もし私に罪があるなら、私の栄光をちりに埋もれさせてください」と、そこまでへりくだって、神様に赦しを乞うこと、これがクリスチャンとしてあるべき姿勢なのかなと、思わされました。

罪の問題は、誰にとっても対岸の火事ではないんです。

それではまた。
主にありて。MAROでした。


横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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