神様が応えてくれなくても、それでも助けを求めて手を伸ばす。【聖書からよもやま話103】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにおこしいただきありがとうございます。

毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧新約聖書、ヨブ記の30章です。それではよろしくどうぞ。


◆ヨブ記 30章24節

それでも、瓦礫の中で
人は手を伸ばさないだろうか。
災難にあって
助けを求めて叫ぶときに。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

この直前の20節で、ヨブは神様に「あなたに向かって叫んでも、あなたはお答えになりません」と言っています。答えないどころか、そんな時の神様は残酷で、むしろ私を攻め立てると言っています。しかし、それでも人は、私は、苦しみの中で助けを求めて手を伸ばすのだと、ヨブは言うんです。

なんだかもう、このしたたかな信仰に、涙が出てきそうです。クリスチャンとして生きていれば、いつでも祈りに神様が応えてくれてバラ色の人生・・・なんてことはまったくなく、神様が祈りに応えてくれず、苦しい状況に放っておかれることもあります。さらにそこに追い討ちがきて、もっと苦しい状況にまで追い込まれることだってあります。ある程度の期間、クリスチャンとして生きてきた人ならば、ほとんどの方がそんな経験をしたことがあると思います。そして「神なんて本当はいないんじゃないか」と疑ったことのある方も多いはずです。

しかし、その経験は2500年も前(諸説ありますが)に生きたヨブが既に誰よりも深く経験し、そして「それでも私は手を伸ばす」と聖書にこうして記されているんです。

神様が助けに応じてくれず苦境に陥ることもあるなんて、「キリスト教」からしたら「不都合な事実」です。もし神様が大衆受けを狙って、ポピュリズムに走るなら、神のことばである聖書には「神様はいつでも助けますよ。あなたの人生バラ色ですよ」と書いた方が良いはずですし、こんな「不都合な」事実はわざわざ記さなくたって良いはずです。しかし神様はこれをわざわざ聖書に記しました。

苦難の中で、最後の砦である神様さえも応えてくださらないとき、正確には応えてくださらないように見えるとき、思えるときかもしれませんが、それでも助けを求めて手を伸ばすこと。たとえそれが声にならない言葉でも、声にならない祈りでも、助けを求めて手を伸ばすこと。そこが本当の「最後の砦」なのかもしれません。声にならない、言葉にならない祈り、うめき。それでも神様は聞いています。見ています。そして間違いなくあなたを愛しています。

それではまた。
主にありて。
MAROでした。

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