司法のシンボルが天秤である理由【聖書からよもやま話238】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は旧約聖書 エゼキエル書の15章です。それではよろしくどうぞ。

◆エゼキエル書 15章3節

異なる二種類の重りは主に忌み嫌われる。
欺きの秤は良くない。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

昨日、大相撲の名古屋場所が終わりましたけれど、近頃の大相撲では審判部が交代したこともあって誤審がファンの間で話題になることが増えました。勝ち負けや反則の「基準」の明確化が求められています。相撲に限らず、野球でもサッカーでも、あらゆる競技でジャッジの「基準」を明確にすることは大切です。そしてたとえば裁判所の裁判官が、事件によって異なる「基準」で判決を下したりすれば、法の下の平等という原則が崩れてしまいます。

箴言の20章はいわゆることわざのオンパレードです。シンプルでわかりやすい教えがズラーっと並べられているので、このコラムを書くにあたってもどれを題材にしようか迷うほどなのですけれど、その中で10節と23節と、2回も「異なる二種類の重りは主に忌み嫌われる」と書いてあります。

これはもちろん、何かを作るにも交易をするにも国の財政を治めるにも度量衡の単位を統一しておくことが大切であるという意味もあるのでしょうけれど、そういう物理的な問題だけでなく、倫理的な問題も指しているのではないかと思います。いわゆるダブルスタンダードは良くないぞ、つまり何かを判断する「基準」は明確にしなさいよ、ということです。2500年前(諸説ありますが)に記された箴言にこれが強調されているということは、その当時から何かを判断するのにダブルスタンダードを用いる人がたくさんいたということです。人間は今も昔も本質的には変わらないものです。

判断基準というのは人によってそれぞれです。しかし、ある同一の事柄について複数の判断基準をもち、それを相手によって使い分けるというのは良くないことです。同じ違法行為をしても、味方がやるのは許し、敵がやるのは絶対に許さない、というのは道理が通らないわけです。サッカーで、こっちのチームが手を使っても見逃すけど、あっちのチームが手を使ったら即PKなんて審判がいたら大ブーイングなわけです。

これは「そうそう。そういうダブルスタンダードの人、いるよねー」という他人事の話ではありません。人間というのはもちろん僕も含めて、おそらくよっぽど注意していなければ、もしかしたらどんなに注意をしていても、ダブルスタンダードに陥ってしまうものではないでしょうか。たとえば5人のヒーローが1人の怪獣に攻撃すればそれは「みんなで力を合わせる」として肯定したくなりますが、5人の怪獣が1人のヒーローを攻撃すれば「1人に大勢で攻撃するなんて卑怯だ!」と否定したりしてしまいます。

もちろん、ヒーローを応援する時にまで「これはダブルスタンダードじゃないだろうか」なんて気にしていたらせっかくのストーリーも楽しめないですけれど、人間は無意識にダブルスタンダードを持ってしまうのだということは、頭のどこかに置いておく必要があると思います。

今特に話題になっている政治と宗教の癒着ということで言えば、「この宗教は政治に口を出しても良いけど、こっちの宗教は口を出すべきではない」のような判断基準を持ってしまうのは非常に危険なことだと思います。私的な好みの判断は別の話として、公的な判断というのは、一度何かの基準を用いたなら、よっぽどのことがない限り、その基準を変えることはゆるされません。誰かに厳しい判断を下したのなら、他の誰かにも同じ判断を下さなくてはなりません。こんなことをつらつらと考えてみると、改めて裁判官というのは大変な仕事だなと思わされます。

感情で基準がゆらぐのは、せめてスポーツの応援の時くらいにしておきたいものです。

それではまた明日。

主にありて。
MAROでした。

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