「人の借金の保証人にはなるな」と聖書にも書いてあります【聖書からよもやま話240】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は旧約聖書 箴言の11章です。それではよろしくどうぞ。

◆箴言 11章15節

他人の保証人になると苦しみにあう。
保証を嫌う者は安全だ。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

20歳の誕生日に、父から立派な印鑑をプレゼントされました。一緒に役所に行って印鑑登録をして、僕はいまもその印鑑を実印として使っています。その時に厳しく言われたのは「このハンコを使えば、それがどんな契約書であれ完全にお前の責任になるのだから十分気をつけるように。特に人の借金の連帯保証人にはなるな」ということでした。

連帯保証人になるということは、自分も一緒に借金の責任を負うということです。特に単なる保証契約ではなく連帯保証契約は、「債務者がお金を返せない時に代わりに払ってね」という契約ではなく、「あなたも一緒に債務者になってね」という契約です。お金を借りることによるメリットは自分には何もないのに、責任だけは債務者とまったく同じように背負わなくてはいけないということです。2020年の民法改正により、ハンコ一つだけではこの契約は成立しないことになりましたし(ケースによりますが)、補償額の上限の設定など、ある程度の保証者保護が加えられたとはいえ、それが非常に責任の重い「危険な」契約であることは確かなことです。そんなわけですから現代日本では、広く一般的に「借金の保証人にはなるな」と言われます。お金自体の問題はもちろんですが、その保証によって友人を失ってしまう可能性も高いからです。

そして、2500年前に書かれたこの『箴言』でも、「他人の保証人になると苦しみにあう」と、同じことが書かれています。こんなところでも、今も昔も人間は変わらないのだということを思わされます。2500年前から友人や知人の借金、あるいは何らかの義務の保証人になって苦しむ人がいたのだということですから。当時はまだ今のようには貨幣経済も法体系も発達していませんから、当時の保証契約がどのような内容であったのか具体的にはわかりませんが、保証契約や連帯保証契約という考え方がそんな昔からあったのだということは面白いことだと思います。

ずいぶん昔のことですが、友人から100万円の借金の連帯保証を頼まれた時、保証は断りましたが個人的に20万円ほど貸したことがあります。結局その友人は行方をくらましてしまい、その20万円は返って来ませんでしたが、もし100万の連帯保証を受けてしまっていたら、僕は100万円払わなければいけなくなるところでした。「友人に貸した金はあげたものと思え」とはよく言われますけれど、たしかに保証人になるよりは、お金をあげてしまった方が安全だし、気も楽だなと思わされました。

お金のことはもう構わないから元気な顔を見せて欲しいなと、その友人には心から思っています。でももし連帯保証をしてしまっていたら、たぶん僕も「お金のことはもう構わないから」なんて言えなかったと思います。連帯保証にはとことんまで細心かつ慎重な判断が求められます。

しかし聖書のメッセージの真髄は、「保証人になると苦しみにあうよ」と言っているにも関わらず、イエス様がその苦しみをわざわざ負って、僕たちの人生の連帯保証をしてくださったという点にあります。安全を捨て、苦しみを負ってまで、何の借りもない僕たちに対して、イエス様は連帯保証人になってくださったんです。あらためて、ものすごい愛だなと思わされます。

それではまた明日。

主にありて。
MAROでした。

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