【哲学名言】断片から見た世界 「使命」を果たすという生き方

青年アウグスティヌス、司教アンブロシウスを通してキリスト教の教えを学ぶ

アウグスティヌスはローマから移ってきた先のミラノで、司教アンブロシウスに出会いました。

「こうして、わたしはミラノにきて、全世界にもっとも優れたものの一人として知られた司教アンブロシウスにまみえたのである。この司教は、あなたの敬虔な崇拝者であり、そのころ休むひまなく説教して、あなたのために、あなたの麦のもっとも良い部分と喜びの油と酔いなき酒の陶酔とを与えていた。わたしは、あなたによって意識することなしに司教のもとに導かれたが、それはわたしがかれによって意識してあなたのもとに導かれるためであった……。」

アウグスティヌスは、このアンブロシウスを通してキリスト教の教義を知るようになってゆきますが、その過程は決して「語られていることを素直に受け取ってゆく」といったものではなかったようです。今回の記事では、その辺りの事情について見てみることにします。

弁論の巧みさを学ぶつもりが、気がついてみると……

まずは、大きな流れを確認しておくことにします。29歳のアウグスティヌスは当時、キリスト教について学ぶ気はほとんど全くなかったのですが、司教アンブロシウスの説教に耳を傾けているうちに、少しずつ教義の内容を理解するようになってゆきます。

『告白』の記述を参考にするならば、マニ教の経験を経ていたその頃のアウグスティヌスにとっては、キリスト教のイメージというのは「信じている人の中に、悪い人はそれほどいなさそうではあるけれど、知的に見ると素朴で、その点は残念な宗教」といったものだったようです。既にアリストテレスやキケロといった哲学者たちの著作を読みこなしていたことなどもあり、彼は最初から、キリスト教の教えのうちに真理が見つかるとは考えていませんでした。「ひとたび哲学を学んでしまった人にとっては、今さら聖書に真面目に向き合うのはムリ」というのが、当初の彼の考えだったものと思われます。

ところが、説教が上手で話しぶりが立派であるという評判に惹かれて司教アンブロシウスの話に耳を傾けているうちに、アウグスティヌスの中で評価が変わってゆきました。アウグスティヌス本人は『告白』において、次のように言っています。「それで、わたしが心を開いて、かれがどんなに巧みに語るかを聞こうとしたとき、かれがどんなに真実を語るかということも徐々にではあるがわたしの心のなかにはいってきた。というのは、かれのいわれる事柄もあながち捨てたものではないということが、まず明らかになりはじめた。」

司教アンブロシウスの説教は、あのマニ教の司教ファウストゥスに比べるならば、話しぶりは少しだけ劣っていました。しかし、その内容はしっかりとした学識に裏打ちされたものだったのであって、キリスト教の教えに対する自分の理解も先入見にすぎなかったことが、次第に分かってきました。要するに、アウグスティヌスがそれまで「これがキリスト教だ」と思っていたものは実はキリスト教ではなかったことが、アンブロシウスの説教を聞いているうちに判明してきたわけです。こうしてアウグスティヌスは日々を重ねてゆくうちに、「真実であるかどうかまでは分からないけれど、キリスト教なるものの教えも、あながち理がないわけではないものらしい」と考えるようになってゆきました。

Milan Cathedral, Duomo di Milano, Italy, one of the largest churches in the world on sunrise

自分自身に与えられた「使命」を果たすために生きる人々が、この世には存在する

論点:
生きるとは、有用性を探し求めることを通して、有用性の次元を超えるものの存在に出会ってゆく過程なのではないだろうか。

有用性とは、別の言葉で置き換えるならば「役に立つ」ということです。青年アウグスティヌスは、巧みな弁論の実例を見ておこうと思って、アンブロシウスの説教を聞きに行きました。彼自身、語ったり書いたりすることには腕に覚えがなくもなかったので、いわばさらなるスキルアップを求めていたわけです。

ところが、世の中で本当の意味においてよい働きをしている人々というのはみな、有用性よりも深い次元に身を置きながら活動しています。彼らは、人々が何を求めて彼らのもとにやって来るのかを認識してはいますが、人々の要求に飲み込まれてしまうことなく戦い続けることこそが人生の課題であることを、心に刻み込んでいます。それというのも、彼らが身を賭して伝えなければならないものの価値は、有用性の次元には決して収まりきることがないからにほかなりません。

アンブロシウスは、自分自身に与えられた「使命」に生きる人でした。すなわち彼は、みずからが傷ついてまで与えるような〈愛〉が存在すること、そして、人間には、その〈愛〉の存在を証しするために命を賭けるような生き方が可能であると語り続けることを自らの務めであると理解しつつ、その実践に日々励んでいたのです。心の底から伝えたいものを持っている人の歩みと働きは、実りを生まないままにとどまることがありません。『告白』の叙述から推察するに、40代半ばの司教が心をこめて語り続けた言葉は、この世での成功を夢見ている29歳の青年の心をも、その青年自身が気づかないうちに静かに作り変えていったもののようです。

【おわりに】

「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。」心の変化とは不思議なもので、自分自身でも知らない間に過程が進行していって、ある日、周りの人から「変わったね」と言われてはじめて自分でも気がつくといったことも、往々にして起こるもののようです。私たちは、青年アウグスティヌスの心の変容の様子を引き続きたどってみることにしたいと思います。

[この一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]

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