【断片から見た世界】『告白』を読む 自由意志の発見

真理の探求が大詰めを迎える

悩みは尽きませんでしたが、30歳の年齢を過ぎたアウグスティヌスの真理の探求は少しずつ、しかし着実に進んでゆきました。

「しかし、カトリック教会にのべ伝えられた『わたしたちの主であり、救い主であられる、あなたのキリストの信仰』は、わたしの心のうちにしっかり根をおろしていた。それは多くの点でまだ形が整わず、教の規範からはずれていたが、わたしの魂はそれを見捨てるどころか、日毎にますます深く吸いこんでいた……。」

第八巻の最終部分で回心に至る『告白』をめぐる私たちの読解も、ようやく第七巻に入るところにまでたどり着きました。これからアウグスティヌスは哲学と神学の最深奥の領域へと足を踏み入れてゆくことになりますが、今回の記事では「自由意志」を主題としつつ、その領域への導入を試みてみることにします。

「主体性が真理である」:自由意志の発見

アウグスティヌスの言葉:
「わたしは、自分が生きているということを知っていると同じように、意志をもっているという意識がわたしをあなたの光のほうへ引き上げた。それゆえ、わたしが何かを欲したり、欲しなかったりするとき、他人ではなくわたし自身が欲し、あるいは欲しないのであるということをたしかに知っていた。そしてそこに自分の罪の原因があるということがだんだんとわかってきた……。」

哲学の探求を続けてきたアウグスティヌスはついに、自分自身のうちで働く自由意志の存在をはっきりと意識するに至りました。それも、自らの探求にとって根源的な重要性を持つものとして、「意志」の働きを認識するに至ったのです。

もはや彼は、マニ教の宇宙論やエピクロス派の原子論のように、世界の成り立ちを自分自身の内面から離れたところで考えるという立場にはとどまることができません。哲学の探求は究極的にはあくまでも、自分自身の「実存」のあり方をこそ問わなければならない。ここでアウグスティヌスが到達していた物の見方は、はるか後の時代にキルケゴールやハイデッガーといった思索者たちが本格的に掘り下げることになる論点を先取りするものであったと言うこともできそうです。

ここからのアウグスティヌスは神の存在、世界そのものの存在、そして、イエス・キリストの受肉の意味といった問題の探求にコミットしてゆくことになりますが、これらの探求はすべて、探求する人間自身の実存的なコミットメントに支えられてこそ初めて成り立つといった性質のものでした。探求のこの時点において、彼が「一人の人間であるわたし自身のうちで働いている、自由意志が存在する」=「主体性が真理である」という認識に至ったことはおそらく、この後の探求の道行きにとっても決定的な意味を持っています。この後の探求においては世界の成り立ちが問われるのと同時に、「自由」なるものの意味そのものもまた、根底のところから問われ直すことになるでしょう。

 

自由は、一度死ななければならない

問い:
生きることに励むのか、死ぬことに励むのか? Get busy living, or get busy dying?

この後の探求において重要になってくるのは、自由なるものはいわば一度死んだ後に蘇ってこそ、その本来の価値と力とを発揮するようになるという実存論的事実にほかなりません。

アウグスティヌスが見出した「自由意志」は、単純に善いものであるというわけではありませんでした。それは、すでに引用した文章にも示されている通り、人間の意志には「罪」なるものの問題が切り離しえない仕方で取り憑いているからです。自由は自分の恣意のままに振る舞う自由にも、自らが本来なすべきことを顧みることなく、隣人に向かって暴力を振るってしまう自由にもなりえます。アウグスティヌスが実存の苦しみのうちで「わたしは生まれてくるべきではなかった」を苦しまなければならなかったのは、その根源をたどるならば、彼もまた他の全ての人間と同じように、自分自身の心が作り出した「出口なし」のうちに宿命的な仕方で縛りつけられていたからであると見ることもできるのではないか。

しかしながら、『告白』の道行きにおいて、この自由は「わたしは生まれてくるべきではなかった」のうちで一度死に、絶対他者であるところの神から「『真実の自己』を生きることへの自由」として任命され直すことによって、根源的な仕方で生まれ直すことになります。

すなわち、自己愛という魂の暗闇の中で生きていたアウグスティヌスの心はこの後に激しい苦悶の過程を経て生まれ変わることによって、「心を尽くして神を愛し、隣人を自分自身のように愛する自由」を生きるようになるに至るのです。「生きることに励むのか、死ぬことに励むのか?」という二者択一のうちで問われているのは、「『真実の自己』を受け取り直す」という、人間存在にとっての未曾有の可能性にほかなりません。自由とは、自分自身の欲望を貫き通すことのうちにあるものなのか。それとも、その本来の姿における自由とは、「存在の超絶」であるところの〈他者〉に出会い、その〈他者〉から呼びかけられ、任命されることのうちで、「『わたし自身』を超える〈愛〉にとどまりながら生きること」としてこそ実現されるものなのか。実存の限界状況において「自由をその本来の姿において受け取り直す」という出来事が、果たして人間には起こりうるのだろうか。哲学の領域において、人間の「自由」をめぐる問題は2022年の現在においてもまだ完全な仕方では解明されるには至っていませんが、これからアウグスティヌスが向き合ってゆくことになるのは、まさしくこの領域にほかならないと言うこともできそうです。

おわりに

「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」と信仰の書は語っていますが、ここにおいては、哲学の営みが向き合ってゆくべき根底的な問題提起がなされていることだけは確かなようです。私たちとしては、引き続き『告白』の言葉に耳を傾けつつ、アウグスティヌスが歩んだ探求の道のりをたどってゆくことにしたいと思います。

[この一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]

 






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