イエス様の復活を「たわごと」と一蹴した使徒たち【聖書からよもやま話158】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 新訳聖書、  ルカの福音書の24章です。それではよろしくどうぞ。

◆ルカの福音書 24章11節

この話はたわごとのように思えたので、使徒たちは彼女たちを信じなかった。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

イエス様が十字架刑に処されて死んでしまいました。イエス様の側にいた女性たちが悲しみながらお墓にゆくと、イエス様の遺体はもうそこにはなく、そして天使が彼女らに告げました。「イエス様はよみがえったよ!」彼女らはそれを使徒たちに知らせましたが、彼らはそれを「たわごとのように思えたので、信じなかった」とあります。

現代人にとって、イエス様の復活は信じがたいことです。復活について語れば「この時代に本気でそんなこと信じているの?」とか言われたりします。つまり「たわごと」だと言われてしまうんです。クリスチャンの中でも、これを本気で信じる人と信じない人がいます。クリスチャンにとっても、復活の事実を信じるのは容易ではありません。しかし、それは現代に限ったことではありません。2000年前の当事者でさえ、しかもイエス様の直弟子であった使徒たちでさえ、それは「たわごと」に思えたんです。彼らも「本気でそんなこと信じているの?」と思ったに違いありません。
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「この時代にキリスト教なんて信じられない」なんてことを、クリスチャンは言われたりしますし、クリスチャン同士でも「もう21世紀なんだから、非科学的なことは比喩として受け止めよう」なんてことが言われたりします。しかし「この時代」も「21世紀」も関係ないんです。2000年前から、常にイエス様の復活の事実は人にとって信じがたいことであり続けてきたんです。そしてその信じがたいことを信じた人たちが、脈々とその信仰、その事実を伝え続けて、今日のキリスト教があるんです。

信仰とは信じがたいことを信じることです。信じやすいことを信じることでも、信じたいことを信じることでもありません。信じやすいことや信じたいことを信じることなら誰にでもできます。信じがたいことを信じてこそ、信仰は真の信仰になり、パワーを持つんです。

「現代社会で信仰を持つ難しさ」なんてことがよく語られたりしますけれど、これは現代社会の問題ではなく、時代を超えて人類がずーっと与えられ続けてきている難しさなんです。

それではまた明日。

主にありて。
MAROでした。

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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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