人はみんな「虎の威を借る狐」です。【聖書からよもやま話136】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、  アモス書の4章です。それではよろしくどうぞ。

◆アモス書 4章1節

サマリアの山にいるバシャンの雌牛どもよ。
お前たちは弱い者を虐げ、
貧しい者を迫害し、
自分の主人に
「何か持ってきて、飲ませよ」と言っている。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

預言者アモスは、北イスラエルの都サマリアの人たちを「バシャンの雌牛」と言って叱っています。バシャンというのはとても豊かな放牧地で、そこに飼われる牛はみんなよく肥えたのだそうです。つまり「バシャンの雌牛」とここで言っているのは、「君たちはとても恵まれた環境にいるにもかかわらず、弱い人や貧しい人をいじめ、しかもさらにまだまだ自分の欲求を満たそうとしている、けしからん」ということです。

ここで「雌牛」と言われているのは、特にサマリヤの金持ちの妻たちを指していると言われています。自分の夫の財力や権力を笠に来て、傲慢な振る舞いをする女性たちがどうもサマリヤにはたくさんいたようです。夫には「もっと私に良い暮らしをさせなさい」と多くを要求し、弱い人たちからはさらに搾取する、そんな人たちがいたようです。

「なんとけしからん人たちだ!よくない!」と、僕たちはつい他人事のように思ってしまいがちですけれど、よくよく考えてみると僕たちも同じようなことをしているかもしれません。弱い人、貧しい人に優しくすることは口で言うほどたやすいことではありません。知らず知らずのうちに、無意識のうちにでも、搾取してしまっていることはあるかもしれません。そして一方では、神様の恵みを日々たくさんいただいているにも関わらず、神様に「もっとください、もっとください!」と要求していることもあるかもしれません。さらにはその要求が満たされないと「神様なんていない!」と信仰から離れてしまうこともあるかもしれません。自分の日々の行動を省みず、神様に自分勝手な要求ばかりしてしまう、これは人間の罪の根源的な姿なのかと思います。
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「虎の威を借る狐」なんてよく言います。自分では力も何もないくせに、それを持っている人に擦り寄って、あたかも自分に力があるように振る舞う人のことです。そんな人がそばにいたら、まったくもって鼻持ちならないものです。でも、よくよく思い返してみれば、自分の力で生きているつもりでも、実は神様に生かされているこの身です。そのことを忘れて「僕は自分で生きている」と主張するならば、それはもう「虎の威を借る狐」なんです。さらにはそこから、「虎」に対して「もっとくれ!もっとくれ!」と厚かましくおねだりをする、これが人の罪なんです。この意味で、人は誰しも「虎の威を借る狐」なんです。どんなに自分で生きているつもりでも、神様の力なしには生きられないんです。

どうせ「虎の威を借る狐」なら、せめて「虎さん、いつもありがとうございます」と、神様に日々栄光をお返ししつつ、感謝して生きたいと思います。

それではまた明日。
主にありて。
MAROでした。

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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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