リーダーが正しくてもみんながついてくるとは限らない【聖書からよもやま話117】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにおこしいただきありがとうございます。

毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、  歴代誌第二の4章です。それではよろしくどうぞ。


◆歴代誌第二 4章2節

彼は、すべて父ウジヤが行ったとおりに、主の目にかなうことを行なった。ただし、主の神殿に入ることはしなかった。民は依然として滅びに向かっていた。

(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)


これはヨタムという王様について記されたものです。ヨタムは父ウジヤと同じように、神様に従う良い王様であったと記されています。ただここで、「ただし、主の神殿に入ることはしなかった」と書いてあります。これは一見すると、「本来は主の神殿に入るべきなのに入らなかった」のように読めもするのですが、本当は反対の意味で「父ウジヤは神の神殿に入ってしまったけれども、息子ヨタムは入らなかった」ということです。

ウジヤは神様に従う良い王様だったのですが、晩年には「私は神様に従う良い王様なのだから、神殿にだって入っちゃうぞ」と、ちょっと傲慢なことをしてしまったのでした。神殿に入って神様に仕えるのは王の仕事ではなく、祭司たちの仕事ですから、王様がそれをしてはいけなかったんです。それだけがウジヤ王の失敗でした。しかし息子ヨタムは父のその失敗を繰り返すことなく、きちんと神様に従いました、ということです。ヨタムは本当に、神様に素直な良い王様だったんです。

しかし残念なことに、王がそれほどに正しくても、「民は以前として滅びに向かっていた」と記されています。王がいくら神様に従う姿勢を示しても、民はその姿勢を示さなかったということです。なんだか、僕はこれを読んで、なんだか深いことをグサッと言われた気持ちになりました。

現代社会に生きていますと、つい「世の中が悪いのは政治家のせいだ」とか「国のトップがだらしないからだ」とか、人のせいにしてしまいがちです。でも国のリーダーがいくら正しいとしても、僕たち一人一人がそれについていかなくては国は良くならないということです。ヨタムほどの「正しいリーダー」であっても、民を「正しい民」にすることも、国を滅びから救うこともできなかったんです。王政であったヨタムの時代でさえそうなのですから、民主政をとる現代ではなおのこと、リーダー一人の正しさで、国全体を正しく導くことは難しいのだと思います。でも、反対に言えば、たとえリーダーが邪悪であるとしても、民を「邪悪な民」にすることはできないということです。

リーダーには確かに大きな影響力があります。でも決定的に僕たち一人一人の正邪を決めるのは、あくまで僕たち一人一人なんです。自分が「正しい」のを「リーダーのおかげ」という必要もありませんけれど、自分が「間違っている」のを「リーダーのせいだ!」と言うこともできないんです。リーダーだってあくまで僕たちと同じ一人の人間ですから、自ずからその影響力には限界があるんです。

それではまた。
主にありて。
MAROでした。

【今日の小ネタ】
数の子一つに含まれる卵の数は2〜5万個だそうです。

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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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