「民意に従う」ことは必ずしも絶対善ではありません。【聖書からよもやま話94】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにおこしいただきありがとうございます。

毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、エゼキエル書の44章です。それではよろしくどうぞ。


◆エゼキエル書 44章12節

レビ人たちは民の偶像の前で民に仕え、そのことでイスラエルの家を不義に引き込むものとなった。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)


レビ人というのは、イスラエル民族の中でも特殊な人たちで、イスラエル12部族には数えられませんし、土地も割り当てられていません。その代わり、他の12部族から収入の10分の1を受け取って生活し、神様に仕える仕事をしていました。他の部族は農業をやったり工業をやったりと、いわゆる生産活動をしていましたが、レビ人はそれをせず、ひたすら神様に仕えることに専念する者として任命された人たちでした。

しかし、そんなレビ人たちまで、他の人たちと一緒になって神様をないがしろにしたと、ここには書いてあります。他の人たちが偶像礼拝をするようになったとき、レビ人たちは本当ならそれを止めなければいけない立場なのに、他の人たちと一緒になって偶像礼拝をしてしまい、それによっていよいよイスラエルの偶像礼拝は深まってしまいました。

現代で言えば、キリスト教の牧師が「仏教の方がみんなのウケがいいから」と仏教信仰を始めるとか、反対に仏教のお坊さんが「キリスト教の方がかっこいいから」とキリスト教信仰を始めるようなものです。神様に仕えるべき人が、人気欲しさに人々の流行とか世論とかに乗っかって、神様から離れてはいけないんです。

「何に仕えるか」というのは大切な問題です。今は民主主義の時代ですから政治家にせよ起業家にせよ「民に仕える」というのは、半ば絶対善のように思われています。たしかに、それ自体は悪いことではありませんが、それが絶対にいつでも正しいとは限りません。もちろん、政治家の方々は民の信任を得て民意を政治に反映させたり、公僕として民に仕えるのが仕事ですから「民に仕える」ことは善だと言えるでしょう。しかしたとえば弁護士や司法書士、行政書士などのいわゆる士業は、原則として「依頼人に仕える」者です。依頼人の利益を最大化するのが使命ですから、いくらそれで多くの人々に嫌われようとも、依頼人の利益を減らす行為はしてはいけません。裁判官は「法に仕える」者です。法を運用し、執行するのが使命ですから、いくら多くの世論が「これはけしからんと思う!」と怒っても、法を曲げるようなことをしてはいけません。それをしてしまったら「法治主義」が壊れて「情治主義」のような混乱を招いてしまいます。

同じようにレビ人は「神に仕える」者ですから、いわば神様の利益、すなわち栄光を最大化するのが使命でした。いくらそれで多くの人々に嫌われようとも、神様の栄光を減らす行為をしてはいけないんです。しかし、彼らはそれをやってしまいました。でも気持ちはわかります。だって誰だって人から嫌われたくはないですもの。レビ人だって人間ですから、嫌われたくなくてあたりまえですもの。

こう考えると、牧師さん神父さんたちって本当に大変だろうな、と思わされます。神様に仕えることで、みんなに嫌われることだってあるでしょう。「こうしたらみんなに好かれる、支持してもらえる」と分かっていても、自分の使命故にその選択肢をとれないことだってあるでしょう。神様と人々の間に挟まれたジレンマ。その労苦は僕たちのような一信徒の想像を超えるご苦労だと思います。心から敬意を表したいと思います。

それではまた。
主にありて。
MAROでした。


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