主の御名をあがめます。
皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにおこしいただきありがとうございます。
毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、ダニエル書の10章です。それではよろしくどうぞ。
◆ダニエル書 10章6節
そのからだは緑柱石のようで、顔は稲妻のよう、目は燃えるたいまつのようであった。また、腕と足は磨き上げた青銅のようで、彼の語る声は群衆の声のようであった。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
キリスト教や聖書のことを少しご存知の方なら「旧約聖書はイエス・キリスト以前の話、新約聖書はイエス・キリスト以降の話」ということを知っている方も多いかと思います。はい、その認識でだいたいオッケーです。ただ、旧約聖書が「イエス・キリスト以前の話」だからといって、では旧約聖書にイエス様が登場しないのかというと、そんなことはないんです。イエス様は旧約聖書にも登場します。その一つが今日のシーンで、バビロン捕囚から解放されたダニエルの前にイエス様が現れます。
・・・しかしまぁイエス様、とんでもない姿で現れたものです。顔が稲妻で目がたいまつって、スマホカメラの顔認識機能なら決してこれを「顔」だとは認識しないと思います。緑柱石というのは宝石の一種で、これに含まれる成分によってアクアマリンになったりエメラルドになったりするそうです。エメラルドのような体・・・緑色だったんですかね。確かに『ドラゴンボール』に出てくる「神様」は緑色の肌をしていましたけれど。
どうしてこんなとんでもない姿の「化け物」をイエス様だと言えるのでしょう。それは新約聖書の黙示録でも、同じような姿でイエス様が登場するからです。「こんな格好で登場する人はイエス様の他にいない!」というわけで、この「化け物」はイエス・キリストであるというのが主流な解釈になっているんです。
大事なことは、イエス様は時間を飛び越えて存在しているということです。ヨハネの福音書の最初には、イエス様は世の始まりからいたのだと書いてありますし、黙示録では「私はアルファでありオメガである」と言っています。つまり初めから終わりまでずっと存在するし、初めであると同時に終わりでもある方なんです。
はい、そういうとんでもない方ですから、人前に出てくる時の格好が多少人間離れしていても仕方ないのかなと思います。ファッションセンスが常人とは違うんです、たぶん。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。