細川忠興(望月歩)とガラシャ(芦田愛菜)の次男・興秋(おきあき)は、「本能寺の変」のあと、ガラシャが味土野(みどの)の山奥に幽閉されている間の1583年に生まれた。3歳になった長(ちょう)、2歳の忠隆(ただたか)と引き離され、失意のどん底で授かった息子だったので、ガラシャにとってもひとしお思い入れがあり、愛着があっただろう。
その興秋が幼い頃、重病にかかり、ガラシャは洗礼を受けさせることを決心した。それは、1587年のイエズス会日本年報に掲載された、ガラシャのセスペデス宛て書簡(キリシタン関係資料では唯一のガラシャ本人が書いた書簡)に次のように書かれていることが根拠とされる。
(三歳の男の子である)二番目の息子が重病になり、生命の希望が完全になくなり、私は彼の霊魂が失われることを悲しんで、彼に何をすべきかマリア(侍女)に相談し、私どもは、最善の方法は彼を作り給うた神にお委ねすることであると考えました。そこで、マリアが秘かに彼に洗礼を授け、彼をジョアンと名づけました。その日からすぐに彼は回復し始め、すでに完全に健康です。(安延苑『細川ガラシャ──キリシタン史料から見た生涯』中公新書)
ここには年齢が「3歳」と記されており、興秋は当時数え5歳なので、年齢を写し間違えたのか、それとも「二番目」が誤りで、実際は弟の忠利(当時数え2歳)を指すのか、判然としない。そのため、忠利がキリシタンだったとする資料もあるが、ここでは興秋と考えたい。
ただ、フロイスが書いた「1595年度年報」にはこんなことが記されている。
彼女(ガラシャ)はまた、夫の越中(忠興)殿には隠して二人の小さな息子に洗礼を授け、またすでに夫の越中殿にも種々の談話によって聖なる福音とは門外者でないように導いた。(『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第1期第2巻、同朋社出版、83ページ)
「二人の小さな息子に洗礼を授け」とあるから、次男の興秋だけではなく、三男の利忠にも洗礼を受けさせたのかもしれない。あるいは、「1606、07年の日本の諸事」には「(細川)越中(忠興)殿とその嗣子(忠利)──まだ異教徒ではあるが」(5巻、231ページ)とあるので、もう一人洗礼を受けた息子とは長男の忠隆のことだろうか。しかし、他の宣教師が書いた「1600年度年報補遺」にはこうもある。
内府様(徳川家康)は長岡(細川忠興)に、以前の所領であった小国の丹後の国に代えて豊前の国全部と、そこに接する豊後の国の三分の一を与えた。この君主は我らのことに対して非常に熱心であり、また一人の兄弟(興元)と一人の息子(ジョアン忠利)と二人の娘、その他に立った従臣の中に聖主キリストを崇めている幾人かをもっているので、我らはこれらの地域の異教徒の住民たちが救霊を得ようとする熱意に燃えるであろうと非常に期待している。(同3巻、336~337ページ)
「一人の息子(ジョアン忠利)」とあるのだが、これは興秋と書き間違えたと考えられる。
さて、病弱だった興秋も元気に成長し、10歳下の秀吉の嫡子(ちゃくし)、秀頼(ひでより)の近習(きんじゅ)に取り立てられる。そして94年、11歳の時に、叔父である細川興元(おきもと)の養子に出された。それは興元になかなか子どもができなかったこともあるが、兄の忠興が弟の興元をライバル視して、弟を自分の支配下に置こうとしたからでもあった。
ちなみに、叔父の興元も1595年に洗礼を受けている(洗礼名はジョアン)。宣教師フロイスの報告には次のようにある。
丹後の国の国主(細川)越中〔忠興〕殿の兄弟で、ガラシアの従兄弟にあたる者(玄蕃頭興元)……は他の五名の重立った人々といっしょに受洗した。(同、78ページ)
ここで興元の前に「玄蕃頭(げんばのかみ)」とあるのは役職名だ。
同年に出された関西における宣教師の代表者オルガンティーノの書簡には、さらに詳しく興元の洗礼のことが書かれている。
今年(1595年)の夏、(細川)ガラシアの夫(細川)越中(忠興)の兄弟のジョアン玄蕃(頭興元)という者は、キリシタンの教理について長い間熱考し論議した後、他の五名の貴人たちとともに洗礼を受ける決心をしてキリシタンとなった。彼はある小さな城(丹後の吉原山城)の国主であり、彼の兄が加俸してくれて二万スクード(銀)の年貢を得ている。彼は己が改宗のことは、誰にも打ち明かさぬことを約束したが、その後心が変わって、先述したように国主の手本を模倣した貴人たち一同に打ち明けた。彼は己が政庁に住んでいる人々といっしょに行動したが、人々はことの新奇さに驚嘆した。……迫害の初期に、我らは(細川)ガラシアの一人の息子(興秋)と、息子の世話をしていた他の者たちとともに洗礼を授けた。ジョアン玄蕃は彼を養子にしていたが、これを知ると非常に喜んだ。彼はすぐれた才能を備えているので、我らは彼がこの教会の堅固な礎石になるだろうと期待している。(細川)ガラシアはこの洗礼が、(高山)ジュスト右近殿の尽力によって得られたことについて非常喜んだ。(同、26~27ページ)
興元は、受洗の前年に養子にした興秋がキリシタンであることを知ったことがきっかけで、その後、ガラシャや高山右近の尽力によって洗礼に至ったというのだが、もう一つその背景には兄・忠興への反発があったとも考えられる。
1601年、兄弟間の不和は決定的となり、忠興は次男の興秋を弟の興元から取り戻した。興元はその後、父の藤孝を頼って京に隠棲する。同じように、廃嫡(はいちゃく)された忠隆や弟の興秋も祖父の藤孝のもとで暮らすようになった。それほど忠興は弟にとっても息子たちにとっても側にいたくない存在だったのだ。
前回述べたように、1604年、忠興が長男の忠隆を廃嫡すると、次男の興秋を世継ぎにすることも一時は考えたが、最終的に三男の忠利を正式に細川家の後継者とした。翌年、興秋は、それまで人質だった忠利の代わりに江戸に向かうことになるが、その途中で出家してしまう。そして、14年の「大坂の陣」では徳川家に楯突いて、以前に近習として使えた秀頼を立てる豊臣側についたため、忠興によって切腹させられた。32歳だった。
そして、三男の忠利が熊本藩の初代藩主となった。1600年、14歳の時から4年間、江戸に人質に出されたことで、2代将軍の徳川秀忠(とくがわ・ひでただ)から信頼を得ていたこともあり、長兄と次男ではなく三男の忠利が18歳で細川家の後継者となったのだ。また忠利は、幕府の有力な旗本たちとも古くから親しかったことで、幕府とのパイプも太く、大名家として一目置かれていた。しかし、忠利は54歳という若さで世を去る。
母のガラシャが死んだのは、忠利が人質となるために江戸に去った後だった。この忠利は父の忠興とは正反対の穏やかな性格だったという。
彼(忠興)の嗣子は今、19か20歳の若者で、良い性格で、キリシタンの諸事に心を寄せており(父と)同様に(司祭に大いなる愛情をもって接し続け、つねに贈り物を寄越)している。(同5巻、99ページ)
家督を継いだ三男の忠利が、禁教令でキリスト教への弾圧が厳しくなる中でも、「母のためにミサを続けてほしい」と父・忠興に送った手紙が残されている。宣教師も同様のことを報告している。
内記(忠利)殿という越中(忠興)殿の嗣子は、相変わらずつねに我らの同僚たちに愛情と好意を示し続け、また我らの聖なる教えを受け入れたいとの望みを持ち続け、基本的な教理の説教をことごとくわざわざ聞き、それらをよく理解し、何とかしてキリシタンになると言っている。しかし、叔父と同じ理由から今はそうはしていない。彼の城のある集落に、本年、立派な教会が建った。彼がそのために援助したのであるが、彼の母、ガラシアがきわめて立派なキリシタンとして死んだので、彼は、母の霊のためにたびたび聖祭を営むためにそこに司祭を1名常住させることを望んでいる。(同、233ページ)
(11に続く)
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