あるとき「天国泥棒」という言葉を聞いたことがあります。日本の言葉ではなく、どこかの国の話らしいです。つまり、多くのクリスチャンは毎週、雨が降っても雪が降っても日曜は教会に通い、礼拝に出て、きちんと献金をして、さまざまな奉仕(教会での役割分担)を果たし、信仰生活を送っているのです。一方で、教会など一切行かず、好き放題に生きて来て、死ぬ直前、イエスを主であると告白し、病床で洗礼を受けて信者になってすぐ死ぬ人を「天国泥棒」というわけです。そんなんで、何十年もまじめに教会に通った人と同じく天国に行けるなんて! という思いから「天国泥棒」という言葉は生まれたのだと思います。
私の知っている人で、「礼拝は、最後の祝祷(しゅくとう)を聴くためだけに行っています」という人がいました。祝祷とは、礼拝の最後の最後に牧師が手を挙げて短く祈るお祈りです。人によって礼拝の何に励ましを受けるかはさまざまです。多くの牧師は「説教」に力を入れているのかもしれません。しかし、その人にとって最も重要なのは「祝祷」でした。祝祷は、ほんとうに礼拝の最後の最後に出ます。その人は、どれほど礼拝に遅刻して行っても、とにかく最後の「祝祷」に間に合えば、その1週間を生き抜く元気が得られるのです。
私はかつて極めて忙しい仕事をしていました。月から金、働いて、土曜も仕事がありました。たまの土曜の休みは精神科のクリニックで1カ月ぶんの薬をもらいに行っていました。日曜は睡眠障害のために「寝だめ」です。それでも教会で少しは役に立ちたかった私は、土曜の「清掃奉仕」に行きました。しかし、それはクリニックの帰りであり、大幅に遅刻するのでした。そして私はほとんど清掃をしていないのに、ちゃっかり清掃後の「お茶の会」でお菓子をいただいているのでした。ある教会員から「いつも最後に来てお菓子を食べている」と半ば冗談でしたが冷やかされたことがあります。
イエスは天の国のたとえとして「ぶどう園の労働者」の話をしました。朝から働いていた人と、午後5時に来てたった1時間だけ働いた人と、同じ賃金だったというたとえ話です(新約聖書マタイによる福音書20章1節以下)。ここで「天の国」と訳されている言葉は、口語訳聖書では「天国」と書かれていました。「天国泥棒」とは言いますが、「教祖」であるイエス様は、天国はこのようなところだと言っていますよ?
教会では「はじめてのかたでもどうぞ」と言うわりには「信仰歴何十年か。すごいな」と言っており、やはり信仰歴が実績みたいになっています。ほんとうは、幼少から教会に通っている人であろうと、大人になってから通った人であろうと、死ぬ直前に洗礼を受けた人であろうと、変わらないはずなのです。礼拝に遅刻して祝祷だけ聴く人も、清掃奉仕に遅れてお茶だけ飲む私も変わらないはずなのです。教会まで「実績主義」にしてはいけないだろうと思います。「み国を来らせたまえ」と祈るなら、まず少しは教会を「天の国」に近づけなくては!